11 アギュー
その夏の終わりごろから、教会に運び込まれてくる人の顔ぶれが変わった。
熱だ。
最初のうちは、ただの夏風邪かと思った。けれど、いつまでたっても下がらない。汗をかいても、悪寒が止まらない。うわごとの合間に、誰かの名前を呼び続ける。
「川沿いの村から、また二人」
「昨日も三人来ました」
そんなやりとりが、日に何度も聞こえるようになった。
村の人たちは、それを昔から「アギュー」と呼んでいた。
原因は分からない。ただ、川とぬかるみと、夏の終わりの湿った空気と一緒にやってくる“呪いの熱”だと、みんなが口を揃えて言った。
病人の腕や額に触れると、皮膚のすぐ下で、何かがざわざわと動いているのが分かった。ラーチェが噛みつくと、それらは一時的に静かになる。けれど、翌日には、またどこか別のところから湧いてくる。
神父様は、結界を強めた。
夜になると、礼拝堂の空気が、いつもよりぴんと張りつめる。見えない膜が、厚くなったみたいだった。
ある夜、わたしはその変化を、はっきり感じた。
祈りが終わり、燭台の火が少し絞られる。神父様が講壇の前に立ち、目を閉じて呟き続ける。
耳には届かないほどの小さな声。
けれど、そのたびに、礼拝堂の壁や床の石が、かすかに震えた。
空気が重くなり、次の瞬間、ふっと軽くなる。
胸の奥で、白い糸が微かに反応した。
まるで、見えない網が、教会全体を包み込んでいくみたいだった。
わたしは、その網の端を、身体の表面で感じていた。
皮膚のすぐ外側に、薄い膜が一枚増える。
外気と中の空気の境目が、うっすらと分かる。
――これが。
言葉にならないまま、胸の奥で呟く。
神父様が維持している「守り」。
けれど、その守りをすり抜けてくるものがあった。
アギュー。
川沿いの村から来た男の人たち。田畑で働き、川べりで網を打ち、夕暮れに蚊にまとわりつかれながら家へ帰る人たち。
彼らの腕には、細かな刺し傷がいくつもあった。
ラーチェがその腕に絡むと、黒い点が、血の流れに乗ってびっしりと詰まっているのが分かった。
いくつかは喰える。
けれど、全部は無理だった。
喰っているあいだにも、新しい点が増えていく。増える速さが、喰う速さを追い越してしまっている。
そんな中に、一人の人がいた。
わたしが、毎日「水と布」を任されていた人だ。
名前は、トマス。
まだ三十にもなっていないくらいの、若い父親だった。
腕には、田畑で鍬を握ってきた人特有の固い筋肉がついている。けれど、胸のあたりは痩せていて、頬もこけていた。
最初に運び込まれたときは、まだ笑う余裕があった。
「すまねえな、お嬢ちゃん」
わたしが水を運ぶたび、トマスはそう言って、片方だけ口角を上げる。
「本当は、こんなとこで寝てる暇ねえんだけどな」
「すぐ……よくなります」
そう言ったのは、わたしの方だった。
あのとき、本当にそう信じていた。
ラーチェが腕に噛みつき、アリシアがひび割れた掌に白い糸を少し流す。神父様は、祈りの合間に彼の枕元で短い言葉を唱える。
少なくとも、ここにいるあいだは安全なのだと、わたしは思っていた。
けれど、熱は下がらなかった。
トマスの額に触れるたび、手のひらにうつる熱が、前日よりも強くなっているのが分かった。
汗を拭いても拭いても、すぐに新しい汗が滲んでくる。
ある夜、トマスの目が、なかなか焦点を結ばなくなった。
呼吸が浅く、早い。顎が上がり胸がひゅうひゅうと音を立てる。
「……アリシアさん」
わたしは寝台のそばから顔を上げる。
アリシアは、すでに隣にいた。
「分かってる」
短く言うと、アリシアはトマスの手を握り、もう片方の手をその上に重ねた。
白い糸が、静かに流れ込んでいく。
痛みを少しだけ鈍らせる、やわらかな流れ。
その横で、ラーチェがトマスの足首に絡みついた。
黒い輪が、血の中を泳ぐ黒い点たちを、片端から喰っていく。
それでも、足りない。
新しい黒い点は、ラーチェが喰うよりも早く、血の流れに乗って次々と生まれていた。
「………。メアリー」
アリシアが、低く呼ぶ。
「水を、」
わたしは頷き、盆を手に取る。
布を冷たい水に浸し、ぎゅっと絞る。
額を拭く。首筋を拭く。胸の上にそっと置く。
トマスの目が、かすかにこちらを向いた。
「ハアッハアッ……なあ、お嬢ちゃん」
かすれた声だった。
「はい」
「俺のとこの……上の子も、そのくらいなんだ」
「……。そう、なんですか」
「それがな。……畑手伝うって、聞かねえんだ。まだ、鍬なんか持てやしねえのにな」
言葉の合間に、息が途切れる。
「ハアッハアッ…。連れて、来ればよかったな……ここになら、アギューも、少しは……」
「……川べりよりは、ましです」
アリシアが、静かに言う。
「でも、ここも、全部は守れない」
その言葉には、自分自身への悔しさが混じっていた。
神父様が、いつの間にか寝台の足元に立っていた。
トマスの顔と、胸の動きと、ラーチェの身じろぎを順番に見る。
「……間に合うか」
呟きは、自分に向けた問いのようだった。
ラーチェは、答えなかった。
ただ、その黒い身体を、もう一度深く沈めただけだ。
わたしは、胸の奥の白い糸を、どうしていいか分からなかった。
自分が流せる分なんて、アリシアや神父様に比べたら、きっとほんのわずかだ。
それでも、何もしないでいるのが怖かった。
勇気を振り絞って、トマスの手首にそっと触れる。
「………。少しだけ、やってみても…いいですか」
アリシアが、驚いたようにわたしを見る。
神父様は、一瞬だけ目を細めてから、短く頷いた。
「ラーチェが止める」
それが許可の合図だった。
わたしは、胸の中の白い糸を、できるかぎり細くまとめた。
昼間、木の幹に流したときの感覚を思い出す。行きすぎないように、ぎりぎり手前で止める。
糸を指先へ。
トマスの手首の上に、そっと落とす。
熱い。
彼の血の熱が、白い糸を通して伝わってくる。
黒い点が、ぐるぐると渦を巻いていた。
わたしの糸は、それに触れるだけで精一杯だった。
砕くことも、押し流すこともできない。
ただ、ほんの一瞬だけ、その渦の速さを遅くした気がした。
それが、何の意味を持つのか、自分でも分からなかった。
「……ありがとうな」
トマスが、小さく呟いた。
「手、冷てえ」
それが、わたしに向けられた最後の言葉だった。
さっきまで荒れていた呼吸の音が、 礼拝堂の静けさにゆっくりと吸い込まれていった。
その日の夜のうちに、トマスは静かに息を引き取った。
ラーチェは、最後まで彼の足首から離れなかった。
神父様は、しばらく黙ってトマスを見下ろし、それから目を閉じて短く祈りを捧げた。
アリシアは、わたしの肩に手を置いていた。
わたしは、何も言えなかった。
布で顔を拭いても、涙が何度も溢れてくる。
――守れなかった。
その事実だけが、胸の中で重く沈んでいた。




