10 3人と1匹
その日の夜の祈りは、いつもより少し緊張していた。
昼間のことが、頭から離れない。
水場でのあの子たちの手。桶の冷たさ。アリシアが間に入ってくれたときの安堵。そして、中庭の木に手を当てたときのざらざらした感触と、幹の内側をゆっくり登っていく水の流れ。
祈りの言葉を口にしながらも、胸の奥では、あの白い糸の道筋を何度もなぞっていた。
終礼の合図が鳴る。
みんなが席を立ち始めたとき、神父様の声が響いた。
「アリシア。メアリー。それから――ラーチェ」
名前を呼ばれて、胸が小さく跳ねる。
足元の影が揺れた。
礼拝堂の柱の陰から、黒い影がするりとこちらへ滑ってくる。石の床を這うその動きは、他の誰にも気づかれないほど静かだった。
「今日も、少しだけ時間をもらおう」
神父様はそう言って、いつものように礼拝堂の隅へと向かう。
ステンドグラスからの光は、もうほとんど消えかけていた。代わりに、壁の燭台の火が、小さく揺れている。
「顔が赤いな」
神父様がわたしを見る。
「昼間の熱は、まだ残っているかね」
「……す、すこし、だけ」
足の中の火照りはもうない。ただ、胸のあたりに、昼間の出来事が重なって、別の熱がこもっていた。
アリシアが、不安そうにこちらと神父様を見比べる。
「昼間、木のところへ行ったと報告があった」
その一言で、胸がきゅっと縮まる。
「ご、ごめん、なさい。仕事の合間に、そのっ少し、だけ……」
先に謝ると、神父様は小さく首を振った。
「謝るのはあとでいい。何をしたか、聞かせなさい」
促されて、わたしは昼間のことを話した。
水場でのやりとり。手首をつかまれたこと。アリシアが間に入ってくれたこと。そして、中庭の木の幹に手を当てて、白い糸をほんの少しだけ流したこと。
「えっと、その……木の中に、水の…道?みたいなものがあって……そこに、白い糸を」
自分でも要領を得ない説明だと思った。
けれど、言うしかなかった。
話し終えたあと、短い沈黙が落ちる。
神父様は、しばらく黙ったまま、わたしの顔と手と胸のあたりを順番に見た。アリシアは、わたしの隣で固くなっている。
足元で、ラーチェがぴたりと止まっていた。
やっと、神父様が息を吐いた。
「……そうか。…木に手を当てて、何かを感じ取れる者は、多くない」
その言い方には、叱る色はなかった。
「まして、その中の滞りを少しだけほぐすなど」
わずかに目尻が緩む。
「それは、とても難しいことだ」
「む、難しい……」
「難しいから、勝手にやってはいけないのだが」
そこで、神父様は少しだけ眉をひそめた。
「アリシア」
「はい」
「メアリーが木に触れていたとき、お前はどう見えた」
アリシアは、少しのあいだ考え、それから答えた。
「………。祈っているみたいでした」
「祈り…」
「はい。言葉は口にしてなかったですけど、手と、顔と……なんというか、その、無理に力を出そうとしている感じじゃなくて」
言葉を探しながら、アリシアは続ける。
「いつもの祈りのときに、神父様の声を聞いているときの、あの顔に似てました」
神父様は、それを聞いて小さく頷いた。
「ならば、方向は間違っていないだろう」
「怒らないんですか」
アリシアが、少しほっとしたような、それでも慎重な声で尋ねる。
「叱る必要のあることは、もう本人が一度、熱で思い知っている」
神父様の視線が、わたしの足元をかすめた。
思わず、指先に力が入る。
「同じことをわざわざ口でなぞるのは、良い教師のやり方ではない」
そう言って、神父様はわずかに口元を緩めた。
「それに――」
視線が、ゆっくりと足元へと降りていく。
「彼が、もう決めているようだ」
ラーチェだった。
いつの間にか、わたしの足首に、冷たい輪がゆるく絡みついている。
さっきまで礼拝堂の別の隅にいたはずなのに、今は当然のように、わたしのそばにいた。
「ラーチェは、気まぐれに見えて、選ぶ相手には一貫している」
神父様は言う。
「この教会に来てから、病人たちの中で、彼が最初に自分から絡みに行くのは、決まって同じ顔ぶれだ」
アリシアが、こくりと頷いた。
「弱っている人とか、ぎりぎりの人とか…ですね」
「そうだ。そして、今は」
神父様の視線が、わたしの腰のあたりを刺す。
「メアリー、お前に付き添うと決めたらしい」
決めた、という言い方が、少し不思議だった。
まるで、ラーチェの方に、何か意思があるみたいに。
「……付き添う、ですか」
「お前の中の糸を上手く扱えるようになればより人に寄り添うことができる。お前の糸の扱い方を、彼なりに教えたがっているのだろう」
「ラーチェが、教える……」
想像が追いつかない。
あの黒い影が、どうやって「教える」のか。
神父様は、膝を折ってしゃがみ、ラーチェと目線を合わせた。
「お前は、壊すのも、繋ぐのも得意だ。会ったときからな」
静かな声だった。
「だが、彼女の中の糸は、他の者のものよりも細く、擦り減っている。お前が少し強く引くだけで、簡単に切れてしまうだろう」
ラーチェの身体が、かすかに動いた。
「だから、よく見てやれ」
神父様の声が、少しだけ低くなる。
「この子が、どこまでなら持つのか。どこから先は危ないのか」
短い沈黙のあと、水音にも似た微かな揺れが、足首から伝わってきた。
返事の代わりだと、なぜか分かった。
「メアリー」
神父様が顔を上げて、今度はわたしを見る。
「これから、お前が白い糸を動かすときは、必ずラーチェをそばに置きなさい」
「……はい」
「彼は、お前の中の流れを、わたしより早く感じ取る。行きすぎたときは、先に止めてくれる」
その言葉を聞いて、昼間の木の感触が、また胸に浮かんだ。
あのとき、もし行きすぎていたら。
幹の中の水の道を、糸で焼き切ってしまっていたかもしれない。
そう思うと、背筋がひやりとした。
「今日から、祈りのあとだけでなく、仕事の合間でも、お前が糸を動かすときには、ラーチェを呼びなさい」
神父様の声は、命令というより、約束のようだった。
「これは、罰ではない」
「……はい」
「守りだ」
最後の言葉が、胸の奥に落ちる。
アリシアが、小さく息をついた。
「わたしも、できるかぎり一緒にいます」
「アリシアは、お前の目と手だ」
神父様が頷く。
「わたしがいないときは、アリシアの言葉を優先しなさい。アリシア、お前も無理はさせるな」
「はい」
返事のあとで、アリシアがわたしの方を見た。
「これからは、三人と……一匹、ね」
その言い方に、思わず笑いそうになる。
ラーチェが、足首から腰へと、するりと這い上がった。
冷たい輪が、ゆるく身体に巻きつく。
怖さより先に、「ああ、これからは、こうなるんだ」と、妙な安心感があった。
――よろしくお願いします。
心の中でそう呟く。
返事は、やっぱりなかった。
けれど、胸の奥の白い糸のすぐそばを、黒い冷たさがかすめていった。
それはたぶん、「見ている」という合図だった。




