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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
灯火

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9 木

 白い糸のことを打ち明けたあとは、しばらくのあいだ、祈りのあとに短い時間が設けられた。

 礼拝堂の隅で、神父様とアリシアが見守る中、ラーチェがそっとわたしの腰に巻きつく。神父様の指示に従って、胸の奥で糸をまとめ、腕や指先に少しだけ流す。

 「そこまで」

 「今度は、半分だけ」

 「熱くなる前に止めること」

 何度か繰り返すうちに、あの夜のような強い火照りは出なくなった。代わりに、指先がじんわり温かくなり、握る力が少し増す程度の、穏やかな変化だけが残るようになった。

 「覚えが遅い方ではない」

 ある日、神父様がそう評した。

 「ただし、身体が弱いぶん、出せる力も少ない。それを忘れなければ、お前は長く動けるようになる」

 「長く、ですか」

 「一瞬だけ強く動ける者より、ゆっくりでも長く動ける者の方が、ここでは役に立つ」

 その言葉が、少しだけ嬉しかった。

 けれど、それを嬉しいと思うこと自体が、どこか後ろめたくもあった。

 他の子たちと、自分が違うことを、はっきり突きつけられた気がしたからだ。

 違いは、すぐに表に出た。

 昼の仕事の合間、ちょっとした隙間時間。

 水場のそばで、わたしは一人、布をすすいでいた。アリシアは別の用事で、別棟の掃除に回されている。

 冷たい水に手を浸しながら、胸の奥の糸を確かめる。

 さっきの祈りで流した白い線は、もう半分以上消えている。ただ、その道筋だけは、まだはっきり残っていた。

 「ねえ」

 背中に、急に声が落ちてきた。

 振り向くと、同じくらいの年の子が三人、少し離れたところに立っていた。みんな、教会で暮らしている子たちだ。

 顔だけ見れば、特別意地悪そうにも見えない。けれど、その目の中にある好奇心と退屈が、わたしには怖かった。

 「さっき、また神父様と何かしてたでしょ」

 ひとりが言う。

 「祈りのあとに、いつも呼ばれてるよね」

 「なに教えてもらってるの? 特別な祈り?」

 「それとも、魔法?」

 最後の言葉に、胸がびくりとした。

 「べ、別に……な、なにもっ」

 否定しようとして、うまく言葉が出てこない。

 「別にってことないでしょ」

 別の子が近づいてきて、桶のふちを指でつつく。

 わたしはとっさに後ずさりする。

 「わたしたちには何もないのにさ。あんたばっかり」

 「いやっ……あのっ……わたし、そんな」

 「ねえ、見せてよ」

 いちばん背の高い子が、わたしの手首をつかんだ。

 冷たい水から引き上げられた手に、別の冷たさが絡みつく。

 「なにができるか」

 「ああっ…。いやっ…その…なんにも……できません」

 「嘘。さっき、手が光ってたって聞いた」

 誰が見ていたのか分からない。祈りのあと、礼拝堂の隅で練習していたとき、誰かの目があったのだろう。

 「ひっ光って、なんか」

 否定しようとした瞬間、背中を押された。

 体勢を崩して、桶の縁に腰をぶつける。水が跳ねて、足元が濡れた。

 「うわっ。いったた」

 「ねえ、いいじゃない。ちょっとだけ見せてくれれば」

 「どうせ楽なしか仕事できないんでしょ?」

 「そうそう。ほら、あの木とかさ」

 ひとりが、中庭に面した窓の外を顎で指す。

 教会の壁のすぐそばに、生け垣みたいに立っている一本の木。幹の一部が虫に食われて、樹皮がざくざくと削られている。夏の陽射しのせいか、葉も少し元気がない。

 「この木、いつも虫に食われてて気持ち悪いんだよね」

 「なんとかしてよ。特別なんでしょ?」

 「どうせ暇なんだから」

 言葉の端に混じる、小さな棘。

 暇、という言い方が、胸に刺さる。

 わたしが重い桶を持たされないことを、彼女たちは知っている。掃除も半分しかやらされないことも。代わりに「水と布」ばかり任されていることも。

 「あのっ。わ、わたしは、特別なんかじゃ……」

 声がだんだん小さくなる。

 そのとき、

 「なにしてるの」

 背後から、はっきりした声がした。

 アリシアだった。

 いつの間に仕事を終えたのか、入口のところに立って、こちらを見ている。目は笑っていない。

 「別に」

 三人のうちの一人が、つまらなそうに肩をすくめる。

 「ちょっと話してただけ」

 「メアリーの手、離して」

 アリシアの声は、祈りのときのそれよりも低かった。

 「やだって言ったら?」

 「じゃあ、神父様を呼ぶ」

 アリシアは、一歩も引かなかった。

 その言い方に、三人の顔色がわずかに変わる。

 しばらく、重たい沈黙が流れた。

 最初に手を離したのは、いちばん背の高い子だった。

 「つまんないの」

 吐き捨てるように言って、踵を返す。他の二人も、少しばつが悪そうに、後に続いた。

 扉が閉まる音がして、ようやく、わたしは息を吐いた。

 手首のあたりが、じん、と痛む。さっき強くつかまれた場所が、赤くなっていた。

 「大丈夫?」

 アリシアが、近づいてくる。

 「……はい。あっありがとう、ございますっ」

 そう答えながらも、声は震えていた。

 アリシアは、わたしの手首をそっと取って、指先でその痕をなぞった。

 「ごめん。もう少し早く来ればよかった」

 「ア、アリシアさんは……悪くない、です」

 「悪くはないけど、遅かったのは事実」

 アリシアは小さく息をついた。

 「さっきの木のこと、気になる?」

 窓の外の一本木を、顎で指す。

 「……そのっちょっとだけ」

 わたしは正直に答えた。

 さっきまで胸の中で渦巻いていた怖さと悔しさが、今は別の形に変わり始めていた。

 あの木。

 毎日、水場へ行くときに横を通る。幹の一部が黒くなり、虫が食った跡が広がっている。枝先の葉は、陽射しを浴びているのに、どこかしおれて見えた。

 「行ってみる?」

 アリシアが言う。

 「し、仕事、まだありますよね」

 「五分くらいなら、誰も文句言わないわ」

 アリシアのそういう判断は、たいてい当たる。

 わたしたちはそっと外に出た。

 中庭には、強い夏の光が降り注いでいた。石畳の熱が、足の裏からじりじりと伝わる。さっき桶をぶつけた腰が、少し鈍く痛んだ。

 木の幹に近づくと、虫食いの跡がよりはっきり見えた。

 樹皮がめくれあがり、中の白い部分がむき出しになっている。そこに、小さな穴がいくつも空き、黒い粉のようなものが溜まっていた。

 「ずっと、こうなの」

 アリシアが言う。

 「前から気になってた?」

 「はい。でも、ど、どうしていいか分からなくて」

 人の身体なら、布で拭いて、清潔にして、少しだけ白い糸を流す。

 じゃあ、木は。

 わたしは、そっと幹に手を当てた。

 触れた瞬間、ざらざらとした感触と一緒に、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。

 人の肌とも、石とも違う、硬いのに柔らかい、不思議な感触。

 目を閉じてみる。

 胸の奥で、細い糸を集める。

 さっきまで、怖さと悔しさでざわついていた場所が、少しずつ静かになっていく。白い線だけを残して、余計なものを外へ追い出すように。

 糸を、腕へ。

 手のひらへ。

 指先へ。

 今度は、流しすぎない。

 胸の奥で、きちんと量を測る。

 夜に足へ流したときの、あの焼けるような熱を思い出す。そこまで行かない手前で、糸を細く絞る。

 指先から、木の幹へ。

 じん、と、軽い痺れが走った。

 けれど、今度は痛くなかった。

 糸の先が、木の中にしみ込んでいく。

 人の身体と違って、血の流れは感じられない。

 その代わり、ごくかすかな「水の道」のようなものがあった。幹の内側を、下から上へと、水がゆっくり登っていく流れ。

 そこに、白い糸が絡む。

 虫に食われた部分の周りで、水の流れがよどんでいる。小さな穴の奥で、白い繊維がぐずぐずに崩れ、黒い粉の下に、小さな黒い点がいくつもへばりついていた。

 ――ここ。

 無意識に、そこを狙っていた。

 糸をほんの少しだけ強くする。

 白い糸が触れた瞬間、黒い点の奥で、何か柔らかいものがじゅ、と音もなく縮む気配がした。

 黒い点が、ざらりと砕けた。

 水の流れが、わずかに通りやすくなる。

 それ以上は、やらなかった。

 手を幹から離す。

 世界が、元の明るさに戻る。

 「どう?」

 アリシアが、わたしの顔を覗き込む。

 「……分かりません」

 正直に答えた。

 「でも、なんか……ちょっとだけ、通ったような、気がします」

 自分でも、何を言っているのかよく分からない。

 それでも、胸の奥には、あの白い糸の通り道だけが、はっきりと残っていた。

 ふと、木の上の方を見る。

 しおれていたはずの葉が、一枚だけ、ほんの少しだけ、色を取り戻したように見えた。

 「……気のせいかもしれません」

 そう付け加えると、アリシアは小さく笑った。

 「気のせいでもいいわ。最初は、気のせいみたいなところから始まるんだから」

 その言い方に、昨日の神父様の言葉が重なる。

 最初は、分からなくていい。

 ただ、感じたものを、忘れないこと。

 わたしは、幹に残るざらざらした感触と、指先から木の中へ糸がしみ込んでいったあの感じを、胸の奥にそっとしまい込んだ。

 背後で、気配がした。

 振り向くと、礼拝堂の影のあたりで、黒い影が一瞬だけ揺れた。

 ラーチェだ。

 影の奥で、ラーチェが柱にぴたりと張りつき、こちら側をジッと見ていた。

わたしと目が合うとすぐに柱の方に身体を向け、まるで上体起こしのように、ゆっくりと体を持ち上げては下ろす。

 ……運動、なのだろうか。それとも魔力の練習なのだろうか。

 その動きが、わたしの胸の奥の白い糸と、どこか同じリズムで揺れているように見えた。


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