8 波紋
朝の祈りのあと、わたしはいつもより少し早く、療養の部屋に連れて行かれた。
「今日は、重い桶は持たなくていい」
神父様がそう言った。
「メアリーは、水と布だけ」
声は穏やかだったけれど、わたしを見る目は、いつもより少しだけ細い。
熱は、さっきより引いてきている。けれど、胸の奥にはまだ、夜の火照りの名残がくすぶっていた。
寝台のあいだを回るアリシアの背中を見送りながら、わたしは部屋の隅の椅子に腰を下ろした。水桶のそばで、布を絞っては盆に重ねていく。
その横で、浅い鉢の水面が、わずかに揺れた。
ラーチェが、こちらを見ている。
黒い影は、相変わらず何も言わない。ただ、水の中で、じっとしているだけだ。
――昨日のこと、見てたのかな。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
そのときだった。
「メアリー」
名前を呼ばれて顔を上げると、神父様がすぐそばに立っていた。
「少し、こちらへ」
わたしは言われるまま、療養の部屋の奥にある小さな間仕切りの中へと入った。簡素な机と椅子がひとつずつ置かれただけの、狭い空間だ。
「座りなさい」
椅子に腰掛けると、神父様はわたしの正面に立ち、じっと顔を見つめた。
「熱はどうだね」
「……少しだけ、あります」
嘘ではなかった。喉もまだ渇いている。
神父様は、黙ってわたしの額に手を当てた。
掌が、ひやりとして、すぐにじんわりと温かくなる。その温度よりも、もっと別のものを測っているような、そんな触れ方だった。
しばらくして、手が離れる。
「昨夜、何かしたかね」
心臓が、一回分、強く跳ねた。
「……い、いえ」
反射的に否定してしまう。
神父様の目が、わずかに細くなった。
「そうか」
短くそう言ってから、少しだけ間を置く。
「アリシアは、嘘をつけと言ったかね」
「違います」
思わず声が大きくなる。
「アリシアは、なにも……」
「では、誰のための嘘だ」
穏やかな声だったが、逃げ道は塞がれていた。
喉が渇く。視線を落として、自分の膝を見る。
夜のことが、ありありと蘇る。指先の痺れ。足の中の熱。布団の中でうずくまった自分。
言ってしまったら、何かが変わってしまうかもしれない。
でも、言わずにいると、もっと悪いことになるような気もする。
しばらく迷ってから、わたしは小さく息を吐いた。
「……昨日の祈りのときに」
そこから先は、言葉が勝手に出てきた。
胸の奥に白い糸が通ったこと。夜、同じ道をたどるようにして、自分の手や足にそれを流そうとしたこと。最初は指が軽くなって嬉しかったこと。けれど、足にやったとき、流しすぎて熱が出たこと。
神父様は、途中で口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、静かに、深く息を吸った。
「……なるほど」
それは、怒りの息ではなかった。諦めの息でもない。
どちらかと言えば、長く待っていたものが、やっと来たときに吐く息に近かった。
「最初に胸に通ったのは、お前の力ではない」
神父様が言う。
「それは、女神様の方からの糸だとわたしは考えている。祈りの場では、白い糸が降りることがある。それをラーチェがお前に流し込んだのだ」
「め、女神様の……」
あの白い糸を思い浮かべる。
たしかに、ラーチェの普段使っている黒い力とは違っていた。自分の中から立ち上がるものとも、どこか違っていた。ラーチェは黒い力と白い力のどちらも使えるの?
「だが、昨夜、お前が自分で動かしたのは、たしかにお前自身の力だ」
神父様の目が、わずかに笑った。
「そして、やりすぎた」
図星を刺されて、肩がすくむ。
「白い魔力も、黒い魔力も、扱い方を誤れば身体を焼く。今回は、軽い火傷で済んだ方だ」
そう言いながらも、その声の奥に、責める色はなかった。
「……怒らないんですか」
気づいたら、そう聞いていた。
「怒ってほしいかね」
「いえ、あの、そういうわけじゃ……」
「なら、怒らない方がよい」
神父様は、机の端に手を置いた。
「わたしが怒るのは、危ないことを危ないと知っていて、なおやるときだ。知らずにやったのなら、怒る理由はない」
「でも、勝手に……」
「勝手に、感じたものを確かめようとするのは、悪いことではない」
その言葉に、胸の奥の何かが、少しだけ軽くなった。
「ただし」
神父様は、そこで言葉を区切った。
「今後は、一人で確かめようとしてはいけない」
「……はい」
「白い力は、ただ優しいだけのものではない。女神様の光も、人を照らすと同時に、影を濃くする」
意味はよく分からなかったが、その比喩だけは、妙に胸に残った。
「お前に流れているのは、たしかに白い糸だ。それを感じ取れたのは、喜ぶべきことでもある」
神父様の視線が、わたしの腰のあたりを一瞬掠める。
「そして、お前にそれを自覚させたのは――」
言いかけて、神父様は足元に目を落とした。
間仕切りの入口の影の中で、黒い影がじっと丸くなっている。
ラーチェだ。
いつからそこにいたのか分からない。水も鉢もないはずなのに、その身体は、なぜか濡れているように見えた。
「お前か」
神父様が小さく言う。
ラーチェは動かなかった。ただ、その冷たい目だけが、静かにこちらを見ていた。…と思ったら素早く柱の陰に身を隠す。
しばらく、神父様とラーチェのあいだに、言葉のない時間が流れた。
やがて、神父様がわずかに口元を緩める。
「……まあ、よいだろう」
それが、許しなのか、諦めなのか、わたしには分からない。
ただ、ラーチェの身体がほんの少しだけ身じろぎしたのを見て、胸の奥の不安が、ほんの少し和らいだ。
「メアリー」
神父様が、もう一度わたしの名を呼ぶ。
「これからは、祈りのあとで、少しだけ時間を作ろう。わたしと、ラーチェと、アリシアとで、お前の中のその糸の扱い方を、ゆっくり覚えていく」
「……いいんですか」
「ああ。どうせ勝手にやるくらいなら、見ているところでやってもらった方がよい」
その言い方がどこか可笑しくて、思わず笑いそうになった。
「今日は、もう無理はするな。熱は一日で引く。代わりに、その火照りの感覚をよく覚えておきなさい」
「覚えて、ですか」
「二度と同じ間違いをしないためには、どう痛かったかを忘れないことも、大事だ」
わたしは、熱の残る足と胸の奥を意識しながら、小さく頷いた。
部屋を出るとき、ラーチェが足元をすり抜けていった。
冷たい輪が、ふくらはぎのあたりを一瞬だけ撫でる。
――見てたんだね。
心の中でそう言うと、今度は、腹の内側から、ほんのわずかに黒い冷たさが返ってきた気がした。
返事にはならないほど、かすかな合図。
けれど、それだけで、わたしには十分だった。




