ep.6
「ユハト様、出発の準備が整いました。人間界の全国家連合が、文字通り首を長くして貴方様をお待ちしております」
執事のように洗練された所作で報告するのは、四天王リナリア。だが、彼女の背後で荷物を運んでいるのは、白い翼を羽ばたかせながらマジックバッグを担ぐ天使セラフィムだ。
天界の精鋭が、魔王の息子の遠征における「ポーター(荷物持ち)」に成り下がっている。この光景だけでも、人間界の者が見れば心臓が止まるだろう。
「リナリア、何度も言うけど、俺は行きたくないんだ。往復の馬車――いや、今回は親父の特製転移門だっけ? どっちにしろ、慣れない場所で寝るのは疲れが取れない」
俺は、最高級の羽毛布団に包まりながら、芋虫のようにのたうち回る。
今回の目的地は、人間界の主要国家がすべて集結する連合会議の本部。目的は「魔王軍との永久平和条約の調印」だという。
「ユハト様、我慢してください。貴方が行かないと、彼ら『怖すぎて』会議場から一歩も出られないそうですよ。貴方が『人間を滅ぼす気はない』と一言言うだけで、魔界の株が上がり、ひいては貴方のスローライフに不可欠な『人間界の特産スイーツ』の輸入がスムーズになるのです」
「……スイーツ。それ、重要だね」
俺は、むくりと起き上がった。
努力はしたくないが、食欲と睡眠環境のためなら、多少の「顔出し」は投資として認めるべきだろう。
「よし、アリア。あんたも来なよ。一応、人間界では有名人だろ?」
隅で窓を磨いていた(天使たちの指導係になっていた)勇者アリアが、顔を上げた。
「……当然よ。私が一緒に行けば、連合の奴らも少しは安心するでしょ。私が『人質』じゃなくて『特別補佐官(という名の雑用)』だってバレたら、向こうの腰が抜けるでしょうけどね」
「いいから、準備して。あと、移動中に食べるクッキー焼いといて」
「……はいはい。焼けばいいんでしょ、焼けば!」
人間界、連合聖都・中央会議場。
そこには、各国の国王、教皇、騎士団長といった、人間界の権力の頂点に立つ者たちが顔を揃えていた。
会場には重苦しい沈黙が支配している。
なぜなら、彼らが迎えるのは、あの「勇者を湯もみ係にし、神様をパシリに使い、天使を窓拭き員にした」と噂される最凶の魔王子、ユハトだからだ。
「……来たぞ。転移の波動だ!」
教皇が震える声で叫ぶ。
中央の演壇に、眩い光と共に黒い影が現れた。
まず現れたのは、冷酷な美貌を湛えた魔王軍四天王リナリア。
次に現れたのは、伝説の勇者アリア。だが、彼女の手には聖剣ではなく、なぜか焼き立てのクッキーが入ったバスケットが握られている。
そして最後に、眠たそうに目をこすりながら、パジャマの上から豪華なガウンを羽織っただけの少年――俺が姿を現した。
「……あれが、ユハトか」
「なんという余裕……! 全国家の代表を前に、あのリラックスした姿。我らなど眼中にないという意思表示か!」
勝手に評価が爆上がりしているが、俺はただ単に、移動の衝撃で頭がぼーっとしているだけだ。
「えーっと、ユハトです。親父の代理で来ました。早く終わらせてくれる? 午後から昼寝の予約が入ってるんだ」
俺が投げやりに放った一言に、会場がざわめく。
「午後の昼寝だと……!? つまり、我々全国家の運命を決めるこの会議を、昼寝の前の前座に過ぎないと言い放ったのか!」
「恐ろしい……! 何という不遜、何という傲慢!」
連合の議長である老王が、震える足で一歩前に出た。
「ユハト殿……。我々は、魔王軍との共存を望んでおります。しかし、そのためには条件がございます。魔王領の北方にある鉱山資源の共同開発、および聖教会の布教権を一部――」
「あー、難しいことはリナリアに話して。俺、数字とか興味ないから」
俺はリナリアに丸投げした。これぞ「組織におけるコネの正しい使い方」である。
「議長。ユハト様は、そんな些末な利益には興味がおありではありません。彼が求めているのは、唯一つ。……『静寂』と『安眠』、そして『至高の菓子』です」
リナリアが冷徹な声で交渉を引き継ぐ。
「鉱山? そんなものは魔王領の地殻変動を抑えるための重石に過ぎません。布教? 神様本人と直接交渉されるユハト様の前で、教会に何の意味があるのですか?」
「ひっ……!」
教皇が白目を剥いて卒倒した。神様とコネがある人間に、教会の権威など通用するはずもない。
「条件はシンプルです。人間界は魔界に対し、四季折々の最高級スイーツと、騒音を出さないための魔法沈黙区域の提供を約束してください。そうすれば、親父――失礼、ガラム様は貴方たちの国を『息子の遊び場の一部』として保護の対象に加えるでしょう」
リナリアの言葉に、各国の王たちは顔を見合わせた。
それは条約というより、もはや「魔王軍の保護下に入る」という宣言に近い。だが、彼らに拒否権などなかった。
背後で控えている天使セラフィムが、窓の外から「ちゃんとハンコを押せよ、さもないと神様にチクるぞ」と言わんばかりに光輝いているのだから。
「……わかりました。調印しましょう」
議長が震える手で羊皮紙に署名した。
その瞬間、人間界と魔界を繋ぐ歴史的な平和条約が成立した。
俺は、その様子を眺めながら、アリアが焼いたクッキーを齧った。
「あ、これ、ちょっと焼きすぎ。次はもう少ししっとりさせてよ」
「……う、うるさいわね! これでも精一杯やったんだから!」
勇者が魔王の息子に料理のダメ出しをされている光景を見て、各国の騎士団長たちは絶望の表情を浮かべていた。彼らにとっての希望が、完全に飼い慣らされている。
会議が終わり、俺は豪華なゲストルームでくつろいでいた。
連合側は、俺を怒らせないようにと、国中のパティシエを集めて「スイーツの祭典」を開催している最中だ。
「ユハト様、いかがですか? 人間界の叡智を集めたザッハトルテでございます」
「ん、美味しい。これなら親父のコネを使って、この国を丸ごと買い取ってもいいかな」
「ユハト、あんたねぇ……。本気で言いそうで怖いのよ」
アリアが呆れたように紅茶を淹れる。
その時、部屋の扉がノックされた。
現れたのは、連合の若きエリート魔法騎士たちの一団だった。
「ユハト殿! 我々は納得がいかない! あなたがどれほど強大な背後関係を持っているかは知っているが、本人の実力を見ないことには、この平和を受け入れることはできない!」
お約束の展開だ。
リーダー格の男が、俺に決闘を申し込んできた。
「俺と戦え? いや、無理。俺、前世も今世も運動不足だから。リナリア、代わりにお願い」
「かしこまりました。一瞬で塵にします」
「待て! 代理を立てるな! あなた自身の魔力を見せろと言っているのだ!」
男が剣を抜こうとした。
その瞬間。
――ズゥゥゥゥン。
部屋全体の重力が数倍に膨れ上がったような、圧倒的な圧迫感が彼らを襲った。
俺が何かをしたわけではない。
ただ、俺が「危ない」と感じた瞬間に、俺の『魔王の印章』――親父のコネの結晶が、自動的に防衛魔法を起動させたのだ。
「……な、なんだ、この魔力は……!? 呼吸が……できない……!」
さらに、天井がパカリと開き、そこから眩い光が差し込む。
『……どこの誰ですか? 私の担当患者の安眠を妨げようとしている不届き者は』
空中に現れたのは、創世神ルミナリスのホログラム映像だった。
「「「「か、神様ぁぁぁ!?」」」」
魔法騎士たちがその場に平伏し、涙を流して震え上がる。
『彼は今、非常に重要な「糖分摂取と休息のフェーズ」にあります。彼を怒らせることは、この私ルミナリスに対する宣戦布告と見なします。……セラフィム、やりなさい』
「御意!!」
窓の外から、モップを持った天使セラフィムが飛び込んできて、魔法騎士たちを物理的に叩き出した。
「ユハト様に無礼を働くとは、窓拭きの刑一万年でも足りんぞ!」
ドタバタと騒がしい声が遠ざかっていく。
「……ふぅ。神様、サンキュ。助かったよ」
『お礼なんていいですよ。その代わり、起きたらちゃんと歯を磨いてくださいね。あなたの健康管理も、私の「安眠プロジェクト」の一環なんですから』
女神様はそう言い残して消えた。
「……ねえ、ユハト」
アリアが、空になったティーカップを握りしめたまま、震える声で言った。
「あんた、もう『魔王の息子』っていう枠すら超えてない? 神様がボディーガードで、天使が警備員で、魔王がパパで……。世界中の誰が、あんたに逆らえるって言うのよ」
「誰もいないでしょ。だから、俺は一生寝て過ごせるんだ」
俺は、満足げにソファーに深く沈み込んだ。
努力して手に入れた平和なんて、いつか壊れるかもしれない。
だが、最強のコネによって維持される「理不尽なまでの平和」は、誰にも壊すことができない。
人間界の全国家を実質的な支配下(スイーツ供給係)に置き、俺のスローライフはついに完成へと近づいていた。
「あー、最高。……アリア、おかわり。今度はもっと甘いやつね」
「……はいはい。幸せ太りして動けなくなっても、私は知らないからね!」
勇者の毒づきを子守唄に、俺は再び、至福の微睡みの中へと落ちていった。
コネこそが正義。七光りこそが最強。
それを証明し続ける、俺の異世界生活。
……しかし、この時の俺はまだ知らなかった。
俺があまりにも「何もしない」ことで、人間界に『聖王子ユハト、全人類の罪を一身に背負い、静寂の中で瞑想を続ける救世主』という新たな宗教が爆誕しようとしていることを。
俺の望むスローライフは、周囲の熱狂によって、ますます騒がしくなっていくのであった。




