第56話:世界樹の実
クロは木漏れ日のなか、悠々と泳ぐように空高く羽ばたく。
かなり高くまで飛んだはずだが、樹冠にはまだ届かない。
「本当にでっけえな……」
世界樹は本当に巨大だ。
山一つほどの巨体をもつクロが、子猫のように見えてしまうほどに。
そのスケール感に、クロはとても新鮮な気持ちになった。
岩山以外に、自分より大きなものはなかなかない。
ようやく手頃な枝を見つけてそこに止まる。
太さも申し分ない。クロはごろりと寝転がってくつろいだ。
葉の間から覗く、目が覚めるような空の青さと降り注ぐ陽光が心地よい。
鬱屈した気分を爽やかに吹き飛ばしてくれる。
先ほどまでいた、霧に沈んだあの陰湿な森の中とは思えない。
心地よさに目を細めながら、ひとつあくびをすると、芳醇な甘い香りがクロの鼻腔をくすぐった。
それは熟れた林檎の香り。まるで鼻先に林檎を突きつけられたかのような濃い香りだった。
クロは溢れてきた涎を飲み込んで、香りがする方向を探る。
鼻をひくつかせながら枝を伝っていると、いつのまにか世界樹の奥深くに入り込んでいた。
枝から幹へ。葉や枝でできた自然のトンネルをいくつも潜り抜けながら進んでいく。
香りの源があると思われる茂みの中に顔を突っ込むと、黄金色に輝くものがあった。
人間の腰ほどの高さがある、巨大な黄金の林檎だった。
その迫力にクロは目を輝かせた。
「おお……でかい!さすが世界樹となると、実もスケールが違うな」
その香りは、今までクロが出会ってきたものの中で一番だった。
その表面は鏡面のようにつるりと滑らかで、覗き込むクロの顔が映り込むほど。
あまりにもぴかぴかと輝きすぎて金属製のはりぼてのようだったが、発される湿度のこもった芳醇な香りが果物であることを証明していた。
「もしかしてプロド村で聞いた、天上の果実ってやつか……?」
食べてもいいものなのか逡巡するが、甘い香りがクロの思考を歪めていく。
どんな味か気になって仕方がなくて、じゅるりと音を立てる。
この時点で、抑えきれぬ食欲に理性が完全に負けていた。
(……こんなにでかいと持ち運ぶのも大変だしな!よし、ありがたく食って種をプロド村に持っていくか)
それらしい理由をつけて、自分を納得させて──
「いただきます!」
クロは一口でそれを食べてしまった。
その味に酔いしれる間もなく、陽気な笑い声が響いた。
「あっはははははは!こいつは予想外だ!食ったのか!?本当に食ったのか!?」
「ギムレット!?」
クロは驚きのあまり喉に詰まらせそうになったが、なんとか飲み込んだ。
「──まさか世界崩壊の原因が、お前さんのたった一口になるとな!」
「え?」
大きな地響きのあと、世界樹がぐらぐらと揺れた。
わさわさと葉が揺れ、幹がぎしぎしと大きく軋む。
世界樹の上に広がっていた青空が暗雲に変わり、豪雨が降り始めた。雷鳴が轟きはじめる。
クロは大雨に打たれながら、世界樹を呆然と見上げた。
素人目から見ても、明らかにそれは死へ近づいていた。
あれほど鮮やかに輝いていた周囲の葉が縮れて、みるみる茶色に変わり始めていた。
そして、尋常ではないスピードで世界の均衡が崩れようとしている。
「ギムレット、俺はいったい何を食ってしまったんだ?」
「おや、何も知らないで食べたのかい?こりゃ傑作だ!」
ふたたびギムレットは笑い出した。豪雨と雷鳴の中、ずぶ濡れで膝を叩く。
その笑い声に呼応するように、稲妻が森を白く照らした。
「──世界にふたつとない、世界樹の実さ。それを失った世界は滅ぶ」
クロは言葉を失った。
雷鳴轟く大嵐の中、死にゆく世界樹は、ふたりの大罪人を見下ろしていた。
あれほど豊かについていた葉は全て茶色くちぢれ、はらはらと散り始めた。もはや見る影もない。
枝はしおれて、幹は生気を失い、灰色のまだら模様へ変わっていた。
世界樹全体が灰色になるのも、そう遠くないだろう。
ギムレットはひとしきり笑った後、顔をゆるりとかしげてくっくっくっと肩を揺らす。
灰色の瞳には、一頭の黒竜が映っていた。
「なるほど、お前さんはまさしく破壊神だな。俺は気に入ったよ」
ざあざあざあざあと雨風がクロの翼を責めるように叩く。
世界そのものが号泣しているような、大粒の雨粒。
こんな天気なのにギムレットの大笑いはまだ止まらない。
轟音と共に世界が白黒にまたたく。世界が彼の狂気に包まれたようだ。
ぴたりと彼の笑い声が止まった。
「おっと、来ちまったな。おっかないのが……」
まるで共犯者へそうするように、クロを親しげに見て大袈裟に肩をすくめた。
「え?」
世界は漆黒に染まった。
足元にあったはずの地面が消失していた。
クロとギムレットはまっさかさまに大穴へ落ちた。
◇◇◇◇◇◇
深い霧の中で、ゆらりと灰色の布が揺れる。
(──ああ、枝に宿っていた最後の命の雫が音もなく消えていく)
そこにいたのは、竜だった。
世界樹の実を手に取り、ためらいもなく噛み砕いた。
愚かにも、しかしあまりにも自然に。
かつて消えた神が、いつかの日のためにと、隠し守り続けたその実を。
「……罪だ。無知もまた、罪だ。」
ヴェトの貌は定まらない。
怒りに歪んだ神の貌、哀れみに泣く人の貌、祝福を告げる古き妖精の貌。
次の瞬間にはまた別の誰かの貌へと変わっている。
「愚かな黒竜よ。汝は、許されぬ大罪を犯した」
墓守ヴェトは知っていた。
この愚かさこそが、新たな神話を開く鍵となることを。
だからこそ裁きの宣告と同時に、墓守の心の奥で確かな歓喜が芽吹いていた。
滅びを呼ぶ者でありながら、新たなる神に至る可能性を秘めた者。
──ああ。ようやく見つけた、我らが待ち人。




