第55話:最後の妖精
つぶらな瞳がとらえたのは、けぶる白霧のなか一瞬躍り出た影。
クロの首におとなしく巻きついていたオコジョエーギルは、弾けるようにすばやくその身を起こした。
「どうした、エーギル?」
「何かが動いたのを見たような気がして…」
「どこだ?」
「あっち」
細長い体をそちらへ向けて、影が見えた方向を指し示す。
「あっちか」
クロが早速その方向へ向き直ると、霧の中からぬっとギムレットが現れた。
クロは息を呑んだ。いつからそこにいたのか。
オコジョの白い毛が、一気にぶわりと逆立った。
「ギムレット……!」
「やぁこれはこれは……とても愛らしい姿だね、勇者様」
エーギルを煽っているのか、おどけたような声。
「元の姿に戻せ!」
クロが止める暇もなく、エーギルが首元からするりと飛び出していく。
ギムレットめがけて弾丸のように跳躍する。
「いいよ、戻してあげよう」
ギムレットはあっさりと応じた。
「!?」
空中で飛び上がった姿勢のまま、元の姿に戻るエーギル。
クロの隣にいた金狼もまた、人の姿へ戻る。
蒼穹のマントがふわりと翻る。
音もなく着地したエーギルの手には、杖槍が握られていた。
その穂先を迷いなく、ギムレットの喉元へ放つ。
あまりにも速い一撃。ヨナでさえ、その杖槍を抜いた瞬間を目で捉えられなかった。
大岩でも打ち据えたかのような、鈍く重い衝撃が森じゅうに響き渡る。
それは間違いなく、即死の一撃だった。
──にもかかわらず、それを受け止めたギムレットには傷ひとつ付いていない。
衝撃の余韻でたなびく白霧の中から現れたのは、四角い革製の、色褪せた旅行鞄。
ギムレットは手ぶらだったはず。どこから取り出したのだろうか。
「おお、怖いねえ。これがお礼かい?」
彼は鞄を下ろして、のんびりとした声で言った。
エーギルは無言のまま杖槍を振るう。
穂先は途切れることなく閃き、苛烈な連撃となってギムレットへ迫る。
ギムレットは涼しい顔で鞄を盾にし、そのすべてを難なく受け止めていた。
ヨナの目が鋭く細まる。
「やっぱ只者じゃねェな、あいつ」
「幻覚はそんなにお気に召さなかったかな、光の勇者様?随分と楽しそうだったけど──」
「ああ、最悪だったよ」
「そうかい」
槍の雨の中、ギムレットは残念でもなんでもなさそうに呟く。
つい、と杖槍を下ろしたエーギルからは、凄まじい殺気が滲んでいた。
穂先にまで、びりびりと震えるような殺意が宿っている。
戦いを見守っているクロですら、思わず息を潜めるほどだった。
「クロ、こいつには近づかない方がいい」
ひらりと杖槍の柄が反転する。エーギルは完全にギムレットを屠る気でいる。
その姿は、獲物を前にした肉食獣そのものだった。ちりちりと光る槍の穂先までもが、獲物を睨んでいるようにも見える。
いつ弾けるように踏み出すか、一触即発の緊張感に満ちていた。
「……おやおや、ずいぶん嫌われたもんだ」
二人は睨み合いながら、じりじりと円を描くようににじり寄る。
エーギルはわずかな隙も見逃さず叩き込むが、その悉くを防がれてしまう。
光の軌跡が幾筋も宙を走る。その度にギムレットの鞄が素早く穂先を弾く。
凄まじい攻防にも関わらず、両者とも汗ひとつかいていない。
連撃の隙間を縫うようにして、ギムレットはハンマーのように大きく鞄を振り上げて反撃する。
鞄の中身は空ではないかと思うほど、軽快な動きだ。
「お前さんの槍捌き、見覚えがあるな。俺の親友を思い出すよ」
「親友……?」エーギルは訝しげにギムレットを睨む。
旅行鞄のかげから、灰色の目がエーギルを捉える。
エーギルはその視線ごと振り払うように、重くのしかかった鞄を弾く。
「ああ、そいつは数百年前に魔王を打ち倒した英雄だ」
それを聞いた槍の穂先が、ぴたりと止まった。
「こう見えても、俺は元勇者さ──妖精族のね」
「お前が!?勇者!?しかも妖精族!?」
意外な自己紹介に、クロは思わず素っ頓狂な声を上げた。
その一声で、さっきまでの剣呑な雰囲気はすっかり霧散してしまった。
クロはギムレットの頭から爪先まで、三度見した。
にわかには信じられなかった。
ひょろりと長身で、どこも神秘的なところはない、しみったれた旅人風のこの男が?
妖精といえば、小さくて愛らしく、背中に蝶のような羽が生えた幻想的な存在だ。
目の前にいる男は、クロが思い浮かべる妖精像と大きくかけ離れている。
「悪いが、とても妖精には見えないぞ」
「随分な言いようだな。妖精族にもいろいろあるんだが……まぁわからねえか」
苦笑したギムレットは旅行鞄を置いて、その上に腰掛ける。
片手にはいつのまにかパイプが握られていた。
「俺以外の妖精族は絶滅しちまったしな。」
こともなげに言うギムレット。
クロ達は一瞬言葉を失った。
「絶滅しただと?」
ヨナが低い声で問い返す。
「ああ。俺がこの森に閉じこもってどのくらい経つか分からないが……まあ数百年以上は経っているだろうさ。」
煙を吐き出しながら遠くを眺める。
「──この森はかつてロヴェーン王国だった。……俺が言えるのはここまでだ」
それを聞いたヨナとエーギルは明らかに動揺していた。
「その様子だと外では忘れ去られているようだな。それでいい。でなきゃ、麗しの女王様が命をかけた意味がない。──それより、だ」
ギムレットは紫煙越しにエーギルを見据える。
「──お前さんは、世界を滅ぼす災厄の黒竜を討つ旅をしているんだろう?」
それは、どこか懐かしいものを見るような眼差しだった。
その眼差しに、エーギルはわずかに眉をひそめた。
「……ああ。」
「同じ勇者のよしみで提案だ。この森を旅の終着点にしないか?」
パイプからは煙がゆっくりと高く糸のように上がっている。
「悪いけど、断るよ」即答だった。
「そこのドラゴンが災厄の黒竜でもかい?」
艶やかな深い飴色のパイプの先がクロを指す。
「……!」それを聞いたエーギルの顔色が変わる。
「この森に閉じ込めれば、災いは起きないし、皆楽しく過ごせる。──悪い話じゃないだろ」
ギムレットは紫煙を吐き出しながら、首を傾げる。
その仕草には、不思議な愛嬌があった。意識しないと、警戒心が不思議なほど削がれていく。
妖精族は人を惑わせる伝承がある。掴みどころがなく、それでいて、妙に人の心をとらえて離さない。
──この男はなるほど確かに妖精族なのだろう、とヨナは思った。
「それでも、さ。先延ばしじゃ意味がない。クロと世界、俺はどっちも見捨てないよ」
凛とした声でエーギルは答えた。
その返答は、予想通りだったのだろう。ギムレットの眼は帽子の影に深く沈んだ。
驚きもなく、悲しみも、怒りもなく。ただ日が暮れて森が闇に沈むように、当然の摂理のように。
クロは一瞬、胸がざわりとした。
「そうかい……それは残念だ。」
ギムレットは霧に溶けるようにして姿を消した。
「待て!」
逃すまいとエーギルは即座に杖槍を放つが、空を切り背後の木に深々と突き刺さった。
「くっ……!」
「行っちまったな……なんというか、お前って意外と手が早いんだな」
「ははは……そうしないと間違いなく逃げられると思ったからね」
「ギルの判断は間違ってなかったと思うぜ。あいつがいたら間違いなくこの森から出られねェ」
「───それよりも、これだ」
ヨナは長い髪を揺らして、それを見上げた。
その先にあったのは、クロたちを見下ろすように聳え立つ巨木。
今まで見たどの木よりも巨大だった。
ユース・ユーキスにも巨木はあったが、それとは全くスケールが違う。
周囲の細長い木々は、その木を敬うように距離を置いて生えていた。
幹が建造物のようにどこまでも太く、見上げても頂点が見えない。
さわさわと涼やかな葉擦れの音。
曇天と霧に覆われているこの森で、ここだけは光が降り注いでいた。
葉の隙間からはわずかに青空が見え、芝生に木漏れ日を落としている。
瑞々しい無数の葉には生命力が満ちていて、淡く光っていた。
「これはまさか、世界樹……?こんなところにあるなんて」
エーギルは目を見張った。
「ほお、これが世界樹か。本当にでかいんだな」
「あいつに案内されたってところだろうな」
「何の意図があって……?」
「ちょうどいい、ここで休むか。これだけでかけりゃ、枝の折れる心配もなさそうだし」
クロはそそくさとドラゴン姿に戻り、休むのに良さそうな枝を探しに飛び立った。
「あっ!ちょっと待ってよ、どこに行くの!?」
「まあいいだろ。これが本当に世界樹なら、悪いことは起きないと思うぜ」




