第57話:墓守ヴェト
生気のない空気とは、このことをいうのだろう。
先程の雷雨が嘘のような静寂に包まれていた。
細く痩せた真っ黒な木が、沼に刺さるようにしてまばらに生えていた。
沼には生き物の気配がまるでなく、曇天を鏡のように映して灰色に染まっている。
その曇天が地上まで垂れこめてきたような濃霧の中に、クロとギムレットは立っていた。
足元は真っ黒な泥でぬかるんでいた。
クロは辺りを見回して、とりあえず泥に足を取られないように小回りのきく人型へ変える。
「なんだここは……?」
「すぐにわかるさ」
ふと何かの視線を感じて前方を見やると、風もないのにそこだけ霧が晴れていく。
「……!?」
その先に、ぼんやりとカンテラが揺れていた。
その傍に、灰色の布を被った影が立っていた。
「愚かな黒竜よ。汝は、許されぬ大罪を犯した」
影が口を開いた。その声は少年であり、老人であり、女でもあった。
「そして──やってくれたな、ギムレット」
影の声には怒りがわずかに滲んでいた。
その人影はカンテラを片手に、ゆっくりと近づいてきた。
布に包まれた影そのものが歩いているような、静かな足取りだった。
揺れるカンテラの灯りが、霧の中にくるくるといくつもの影を映し出していく。
まるで影そのものが霧の中で行列を作っているようだった。
それは、無数の死人が列をなしているような、不気味さ。
または、祈りを捧げながら歩く巡礼者たちのような、厳かさ。
あるいは、道端で見た名も知らぬ人々の葬列のような、物悲しさ。
見るたびに印象が次々と変わる影に、クロは奇妙な恐怖を覚えた。
「悪いねぇ、ご主人様。ちょっと遊びすぎた」
クロの横でギムレットは飄々と肩をすくめる。
申し訳なさなど微塵も感じられない口ぶりだった。
「遊びすぎた、で済むものではないぞ」
近づいてくるその貌は、あいかわらず布の影に隠れてよく見えない。
カンテラの曖昧な灯りで、輪郭がようやく見える程度だ。
どうしてこんなに顔が見えづらいのだろう?
クロが不思議に思って目を凝らすと、エーギルの幼い貌が見えた。
そして、どこかで出会った村人の貌に。次いで、前世の親友の貌に。
クロの記憶をかすめ取るように、布の下の影が次々と変化していく。
「……っ!」
クロは無意識に尻尾をわずかに丸めた。
「ああ、この方は俺のおっかないご主人様ヴェト様さ。ここで墓守をやってる」
「……墓守?ここは墓場なのか?」
予想しなかった答えに、クロは思わず聞き返す。
「そうだ。ここは忘れ去られし神の死のあと──そして、久しいな。世界樹より分かたれし、ロヴェーンの子らよ」
ヴェトが向き直ったその先には、エーギルとヨナが立っていた。
エーギルとヨナはずぶ濡れだった。さきほどまでクロと同じように豪雨の中にいたらしい。
そして、二人ともヴェトの変わり続ける貌に目を奪われていた。
特にヨナは、悲しみとも郷愁ともつかない、初めて見る表情をしていた。
やがて我に返ると、苛立たしげに首を振った。
「ああ、何が何だか分からねェ……クロ!お前、一体今度は何をやらかしたんだァ!?」
ヨナの額に青筋が浮かんでいる。
「ヨナの怒鳴り声を聞くと安心するな……どうやら俺は世界樹の実を食っちまったらしい」
「お前本当に何食ってんだァ!?」
「せ、世界樹の実!?クロ!!早くぺッてして!ぺッてしなさい!!」
エーギルは沼の泥で足が汚れるのも構わずに駆け寄り、クロを激しく揺すぶる。
「今から吐けば間に合うか?……クソッ、食べられて困るならなぜあそこに案内したんだ?」
ヨナに詰め寄られ、胸元を掴まれたギムレットは肩をすくめる。
「そもそも世界樹の実は見つけることすら難しいんだが、こいつは簡単に見つけちまった」
「見つけた時点で止めろよ!お前は森の番人だろ」
「どうするか見てみたかったのさ。まさか食べるとは思わなかったがね」
無理やりクロの口を開こうとしていたエーギルの手が止まった。
「世界樹は願いの本質を暴く、か……」
「そうさ。あれを前にしたら誰でもその価値を理解して畏怖するのに、まさか食っちまうとは。──それがそいつの本質って事だ」
それを聞いたクロは思わず口を押さえた。
「神になる器ってのはね、力じゃないのさ。何を欲しがるかで決まるんだ」
ギムレットはそんなクロに歩み寄り、悪魔のようにささやく。
「昔々の話だ。──あるところに、世界を救った英雄がいた。」
そいつは正義感の強い男だったよ。
困っている奴を放っておけない優しい奴だった。
誰かが泣いていれば剣を取ったし、どこまでも歩いていった。
王はそいつを英雄と呼んだ。その方が都合が良かったんだろうさ。
ギムレットは笑う。
王は言った──『英雄よ、魔王を討て』と。
愚かな英雄は頷いた。世界を救うためだと。
ある女王は止めようとした。誰より先に結末を見ていたからな。
だが王は話を聞かなかった。英雄も行軍を止めなかった。
そして、正義の名のもとに銀刃が振り下ろされ、魔王の首は落ちた。
人々は歓声を上げ、王は黄金の祝杯を掲げた。
──ああ、誰も知らなかったのさ。
倒れた魔王が、世界を支える柱のひとつだったなんて!
そして世界は天秤を一つ失い、英雄は呪われた。
女王の国は滅び、世界樹と共に森は閉ざされた。
妖精は消え、俺だけが残った。
人の王はすべてを語らぬまま、死んでいった。
──めでたし、めでたし。
ギムレットは皮肉げにそう締めくくった。
ギムレットの昔話を聞いたエーギルとヨナの顔は蒼白だった。
「今の話は……まさか」
「だから俺は、あんたが哀れで仕方がないのさ」
ギムレットはエーギルを一瞥すると、クロに向き直った。
「なあ、お前は闇神の生まれ変わりなんだろう?こんな世界、いっそ壊してくれないか」
それは遊びに誘うような軽い口調だった。
かつて親友を食い潰し、同胞を滅ぼした世界。
ギムレットの灰色の瞳は、昏く沈んでいた。
「世界を滅ぼす権利はお前さんにある」
「……断る。残念だが、俺は神にならない」
「──それは許されぬ」
墓守が口を開いた。
「世界樹は既に限界だった。汝が実を食ったことで、滅びは決定的なものになってしまった」
クロは眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
「汝は新たな世界樹の依代となった。すでにその根を汝の中に下ろし始めている。このままでは世界樹は汝の命を吸い尽くすだろう」
それを聞いたクロの顔が引きつった。
「ちょっと待て。俺は死ぬのか?」
「ああ、死ぬ。そして、汝の死と共に世界は崩壊する」




