第53話:欲望のカタチ
「美味い!どれもこれも美味すぎる……!」
クロは村人達に盛大にもてなされていた。
皿を平らげたそばから、色鮮やかな料理が次々と運ばれてくる。
どれも今日収穫した新鮮な野菜をふんだんに使ったものばかりだ。
絶妙なタイミングで出される口直しのフルーツも素晴らしい。
クロは文字通り幸せに震えながら、夢中で舌鼓を打っていた。
この素朴なパンも、焼きたてで実に美味い。外はざっくり、中はしっとり。小麦の味がしっかり生きていて、焼き具合も完璧。
クロが思い描く理想的なパンそのものだった。
かぶりつく贅沢を味わいたくて、あえてカットしない状態で出してもらった。
熱々のパンにバターをたっぷり塗って、がぶり。
齧った断面からは、ほのかに湯気が立ちのぼる。
溶けたバターが白い生地へじわりと染み込んでいく様子は、もはや芸術的ですらあった。
うっとりと見惚れながら、クロはため息混じりに呟く。
「本当にこのパンは完璧だ……困ったな、こんなに幸せでいいのか?」
おかわりを何度したかわからない枝豆のポタージュを飲み干すと、香ばしい肉の香りが漂ってきた。
村人たちが二人がかりで運んできたのは、いかにも重たそうな大皿だった。
その上には大きな銀蓋が被せられている。
「メインディッシュはこちらです!なかなか自信作ですよ」
いかにも料理上手そうなおかみさんが、自慢げに胸を張った。
銀蓋の隙間から漏れ出るこんがりと焼かれた肉の香りに、涎が溢れそうになる。
クロはごくんと喉を鳴らした。
(この匂いは鶏肉ではないな。牛か豚か。いや、ジビエかもしれん。鹿肉か?)
やがて大皿がクロの前へ置かれた。
銀蓋が、いままさに持ち上げられようとしている。
──クロが食べたいなら、食べてもいいよ。
聞き覚えのある声がした。
それが誰の声か考えるよりも前に、顎が動いていた。
クロがそれを口にした瞬間、ばきりと骨が折れたような音がした。
あざやかな血の匂いと味が口に広がった。
驚いて口を離すと、それは人だった。
上半身がごっそりと無くなっていた。
(──おれは、なにを、だれを食べた?)
クロは震える手で口に触れた。
口と胸がべっとりと鮮血で濡れていた。
さっきまで人姿だったのに、いつのまにかドラゴン姿に戻っていた。
見覚えのある聖痕が刻まれた傷だらけの白い手が、ぼとりと落ちた。
見覚えのある青いマントが、はらりと音もなく落ちた。
自分が何を食べたのか、理解したクロはすぐに吐き出そうとした。
吐き出したいのに吐けない。
なぜなら、なぜなら。
あまりにも美味しすぎたから。
エーギルの血肉は驚くほど美味だった。
エルフの血肉で魔物達が狂うのも納得の味だった。
食材は調理してこそ輝く、とクロは思っていたが、それを軽く覆すほどの味だった。
舌の上に広がる血肉の味と余韻は、もはや芸術の域に達していた。
本能に逆らえず、涙をこぼしながら飲み込んだ。
喉を通ったそばから、熱を持った多幸感が染みるように広がる。
飲み込まなければよかった、と強く後悔した。
(美味すぎる。あまりにも美味しすぎる)
クロは震える手で口を押さえた。
こんな時なのに、食べこぼしが気になっている。
自分のおぞましさに、あさましさに、おそろしさに震えた。
──ああ、残った部分を早く口に入れたい。肉は鮮度が命だ。
こうしている間にも、血がどんどん流れていってしまう。もったいない。
まだ口に残る血の味でさえこんなにもおいしいのだから、早く続きを食べたい。
理性とは裏腹に、尻尾が苛立ちと葛藤で激しくわななく。
翼が落ち着きをなくして揺れる。興奮で息が荒くなる。喉から低い唸り声が漏れる。
少しでも食欲を振り払おうと首を振るが、逆効果だった。
濃厚な血の匂いで瞳孔が細まるのを感じた。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
エーギルを、食べたくてたまらない。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
幻影のように耳に残る、エーギルの優しく囁くような声。
彼の声を聞くと、いつも、全てを許されたような気持ちになる。
──クロが食べたいなら、食べてもいいよ。
ぎり、と口を押さえる手に力がこもる。
目から涙が溢れてくる。指の間から涎が溢れてくる。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
涙と涎が混じって、降り始めた雨のように地面にぽたぽたぽたと落ちる。
地面に落ちた鮮やかな青いマントが、美しい食器のようにいっそうクロの食欲を引き立てていた。
(俺の罪は──この食欲だ。)
◇◇◇◇◇◇
ふいに、記憶が蘇る。
──いちばん簡単な従魔契約の方法は、主の血を従魔に飲ませることなんだ。
エーギルに従魔契約について尋ねたときのことだ。
「でも、エルフの血は魔物を暴走させる劇薬と言われているんだ。過去に従魔契約を試みたエルフは、血を飲んで凶暴化した魔物に襲われたらしい。血を飲ませる以外の契約方法は専門家に聞かないと分からないね」
エルフの血はなぜ魔物を狂わせるのか。
不思議に思ったクロは、エーギルの匂いを嗅いでみた。けれども劇薬の気配は一切なく、ただいい匂いがするだけだった。清涼感のあるハーブとほのかにムスクが混じったような香り。
犬のように無遠慮に嗅いでしまったことを、脳内の人間側の俺は反省した。しかし、ドラゴン側の俺は嗅ぐ事にまったく抵抗はなかった。
「……そんなに危ないのか?全然分からん、いい匂いしかしない。血となるとまた違うのか?」
クロが首を傾げると、エーギルが苦笑しながら教えてくれた。
エルフの血は人間の種族の中で最もマナ含有率と純度が高く、魔物にとって大変なご馳走らしい。
かなり度数が高い上等な酒のようなものなのだろうか。
いい匂いと感じたのは、それが理由かもしれない。
「人と魔物のいちばん大きな違いは、身体のマナの含有率だよ。人間は含有率が低く、魔物は含有率が高い。含有率が高いほど、マナだけで生きられるんだ。その代わり、マナの影響を受けやすい。汚染マナで狂った魔物の目が赤く光るのが、わかりやすい例だね」
「ふうん……」
「クロはドラゴンだから一応魔物になるね。際限なくいっぱい食べるのは、きっと食べ物を自分のマナへ変換する速度がすごく速いんだと思う」
エーギルの瞳にはクロが映っていた。
「クロに俺の血を飲ませるのは全然いいんだけど、従魔関係にはなりたくないな。対等な友人でありたい」
エーギルはかたくなに俺と従魔契約を結ぼうとしない。
従魔契約そのものに忌避感があるようだった。
「……クロ、俺の血が気になるかい?」
エーギルは穏やかな声で問いかける。まるで夜ご飯の献立を聞くような気楽さで。
彼の声は、風に揺れる木陰のように心地よかった。
「別に。契約はしてもいいけど、お前の血には興味はない。もしエルフの血で狂う原因がマナにあるのなら、たぶん大丈夫だ。俺が狂ったその時は、お前が俺を殺せばいいだけだ」
「やめてよ。俺はクロを殺したくない。それを選ぶくらいなら──」
エーギルは何かに思い当たったように、そこで唐突に言葉を止めた。
「……ううん、いやなんでもない。絶対に飲ませない方がいいね。もしそうなってしまったら、その時はすみやかに君を殺して、俺も死ぬ」
重い言葉とは裏腹に、エーギルの表情は穏やかだった。
クロはその”君”呼びに違和感を覚えて、胸が冷えるのを感じた。
彼はクロのことを必ず名前で呼んでくれる。「お前」とは絶対に呼ばない。
クロが何をしてもエーギルは怒らないし、ご飯だっていくらでも食べさせてくれる。
クロが嬉しい時は自分のことのように喜んでくれる。
その可愛がり方は、過保護を超えて、むしろ熱烈とさえ言えた。
エーギルの血を飲んだ時、”クロ”が”クロ”でなくなり、”君”になるのか。
自分には甘いこのエーギルが、もうその時点で、自分のことを”クロ”とみなしてくれないのだろうか──。
そんなエーギルの竜殺しとしての冷徹な一面と葛藤を垣間見た気がして、クロは少し恐ろしくなった。
なにより、エーギルが悲しむ顔は見たくない。
「そこまでかぁ?お前が死ぬぐらいなら俺もやめとく」
わざとそっけなく言って、クロはベッドに寝転がった。
クロはあえてそれ以上聞かなかった。そんな未来なんて来なければいい。
「優しいね、クロは」
それを言うならお前のほうだろう──クロは言葉にしなかった。
エーギルはいつでも俺を殺せるのに殺さない。
たぶん、俺はエーギルが追い続けている黒竜かもしれないのに。
『闇神は守護神であると同時に、破壊神でもある。──ゆえに、汝は世界を滅ぼし得る』
破壊神──ネヘブからそう呼ばれた時、妙にしっくりきた。
俺は何らかの条件が揃った時……そうなってしまうのだろう。
自分が神になる姿は全く想像できなかった。
もちろん自分に、ドラゴンらしい尊大な自尊心はある。
神になって崇め称えられるのは悪くないと感じる。
でも恐怖で恐れられて畏れられるのは、違う。
その先に世界を滅ぼす未来が待つのなら、神になりたくない。
そんな未来を迎えるぐらいなら、ずっと人に飼われるぐうたらな竜でいい。
俺の願いはただ一つ、美味しいものをたくさん食べてぐうたらすることだ。
「俺は絶対に神にならない」
◇◇◇◇◇◇
──幻とはいえ、彼の血の味を知るべきではなかったと、クロはひどく後悔した。
「クソ……ギムレットの野郎、許さねえ」
濃霧の中で目覚めたクロが、開口一番に吐き捨てたのはギムレットへの悪態だった。
すべて迷いの森が見せた悪夢だった。
悪夢の余韻から逃げるように、クロは立ち上がってすぐに歩き出した。
息はまだ荒かったが、クロにとって、その息苦しさがかえってありがたかった。
現実だと実感できる。夢から目覚めた実感をもたらしてくれる。
口の中が鉄錆臭い。
クロは口の中を噛んで、悪夢から無理やり覚醒した。
クロは、従魔契約について聞いたあの日から、彼の血がどんな味か考えること自体がとてもいけないことのような気がした。
あえて言葉にはせず、考えないようにしていた。
けれど、本能的に、エーギルの血は美味いと確信はあった。
だからなるべく考えないようにしていた。
クロが必要以上に食べるのは、それとも関係があるのかもしれない。
そして、その直感は当たっていたと言わざるを得ない。
エーギルの血が舌に広がったあの瞬間、雷に打たれたような心地がした。
彼の血肉は、まさしく甘露であり劇薬だった。
クロの価値観をたやすく変えてしまうほどの味だった。
血そのものというより、血に含まれた濃厚なマナが、舌を通して脳髄を痺れさせるような多幸感をもたらした。
豊かな余韻があとを引く強烈な飢餓感の引き金になって、クロの本能を激しく刺激する。
今まで口にしたどの料理と比べ物にならないほど美味く、これ以上のものは他に存在しないとさえ感じた。
頭が醒めた今でも、エーギルの血の味が頭から離れない。
自分は魔物側なのだな、と改めて思い知らされた。
クロは大きくため息をついた。
「そりゃ迷いの森とくれば、悪夢や幻覚はお約束だけど!これはないぞ……趣味が悪すぎる」
かなり疲れた。精神的なダメージが大きい。
その場から少しでも早く離れたくて、クロは大股で歩き続ける。
「きっとエーギル達も同じような目に逢ってるんだろうな……ん?」
足元で何かが動く気配がして、そこに目をやると真っ白な小動物がいた。
くりりとした愛らしい目に、丸みのある耳。細長い胴に、白くてふわふわした毛並み。
尾先だけが灰色の、真っ白なオコジョだった。
そのオコジョは軽く首を傾げながら、クロのことをじっと見つめていた。




