グリーン・レインボー -2
2
盆地とはいえ、高所ならばトウキョウよりは涼やかだ。
ノーヘルでバイクにまたがり、ウォーレンの乗る車を追いながら、俺は視線を巡らせる。
広がるぶどう畑。昼間に高所から見れば、緑の海の様に波打っている様が観察できるだろう。実の様子は暗がりになってしまっていて、よくわからない。
下手くそな口笛を吹いてみる。耳の奥にこびりついた音符。
空には星がまばらに浮かぶ。都心部よりはるかに多い星屑たち。彼らは端的に、俺という人間の限界を指し示している。
調子はずれの口笛を吹き続ける。ピーピーと。かつて誰かが意味を与えた音の群れ。夜の街に響いてく。電灯がパチパチと瞬き。コンクリの道は幅狭く。左右の草むらと畑からは、隠しきれない雨の匂い。風がサワサワと揺れ動く。
いい場所だった。
緑ある街。人工の園。植生に手を入れるなら、このくらいがちょうどいい。
「あそこです」
駐車場。車から降り、ウォーレンが少し離れた丘の上を指差す。この列島においては、伝統的な瓦屋根の一軒家。周りに他の建物は見当たらない。石垣の広さからして、庭は相当大きそうだ。もちろん俺の家と比べれば雲泥の差だが、別に誇ることでもない。
少し錆の付いた鉄門の前に並ぶ。ウォーレンがチャイムを鳴らした。十数秒後、門の向こうの扉が開かれる。年若い女性が現れた。
「おかえりなさいませ」
「はい。今日も一日ありがとうございました。妻の様子は?」
「いつも通りです。では、私はこれで」
女性はにこやかに微笑んで、門へと続く階段を下りてくる。すれ違いざまに俺を一瞥したのが、気配で分かった。
「お手伝いか。いや、ヘルパーの方がいいのか?」
「似たようなものです。重ねて確認させていただきますが、よろしいのですね?」
「言っただろう。演技は得意な方だ」
「それとこれとは話は別です」
俺は大股でウォーレンを追い越し、ドアノブに手をかける。大きく深呼吸し、一気に扉を開け放った。
薄暗い玄関。横には無数の置物。瞳孔まで見開いた木彫りの狸が、俺の背筋を冷たくする。廊下の奥には暖色の光。靴を脱ぎ、一歩一歩進んでいく。
開けた場所に出た。リビングだろう。年代物の家具が並ぶ。キィ、キィと、木が軋む音。壁際に置かれたピアノの前でロッキングチェアが揺れ、毛の深い絨毯を人型の影が這い回る。
「……あら?」
灰色の頭が止まる。一人の老婆が、椅子からこちらを振り返ってくる。
目が合った。俺は唾を飲み込む。満面の笑顔が花開いた。
「まあ! おかえりなさい、アル!」
「ああ。ただいま」
「集会お疲れ様。ちょっと待ってね。今、紅茶を入れるから」
しわくちゃの手が、ひじ掛けの上に置かれる。全身をブルブルと震わせながら、立ち上がろうとする。
俺はロッキングチェアに歩み寄り、彼女の肩を押しとどめた。
「いいよ。無理する必要はないさ。……母さん」
「そう? 悪いわね。私ったら、すっかり体力が落ちちゃって。この前メルにも言われたわ。私ったら、すっかりお婆ちゃんになっちゃったのね」
「そんなことはないさ」
背後で扉の閉まる音がする。チラリと振り返ると、ウォーレンがキッチンに歩いていくのが見えた。
部屋の温度が急速に落ちていく音がした。俺はその場に立ち尽くす。後ろを振り返ることが、できない。
「あら。今日は帰りが早いのね、サミュエル」
他人行儀な声がした。
赤の他人に対するよりも、冷めた気配。
「ああ」
コンロから青い火が発生し、ウォーレンが置いたヤカンを炙る。ギィ、ギィと、椅子が呻く音。ゆらり。気配が揺れ、空気がざわめく。
「ああって、それだけなの? アルに対して言うことはないわけ?」
骨ばった手が、俺の腕を掴む。肌を百足が這い回るような悪寒。俺は身を震わせる。振りほどきたい衝動を必死に抑える。
カチカチと、歯がぶつかる。俺はウォーレンへと目を向ける。彼は何も答えない。淡々と、紅茶を入れる準備を続けている。
「……あら?」
張り詰めた緊張が緩む。血液が血管を高速で通り抜ける。老婆の手から力が抜けて、俺の腕が解放される。俺は小さく深呼吸をして、首を後ろに回した。
あらぬ方向を見つめる、灰色に濁った瞳。半開きになった口から覗く、黄色い歯。かさついた唇を唾液が濡らす。
また、しばらくの沈黙。ヤカンが湯気を吐き出す音。老婆はヒョウと息を吸い込み、瞬きを繰り返した。揺れるロッキングチェア。立ち尽くす俺。また、目が合う。
「まあ! おかえりなさい、アル!」
「……ああ。ただいま」
「良かった! 本当によかったわ! ねえあなた! アルが帰ってきたわよ!」
「ああ」
柔らかな応え。ヤカンがけたたましく喚き、コンロの火が消える。ウォーレンが棚からカップを三つ取り出す。俺は両手を強く握りしめた。
「ようやく目が覚めたのね。もうあんなところに関わっちゃだめよ?」
腕が掴まれる。先程よりも強い力。爪が軽く皮膚に食い込む。豪風が吹き荒れている。どこに? 耳の中に。嵐のような耳鳴りが続く。
嫌な汗が浮かんでくる。唇に歯を突き立て、攫われそうになる意識を懸命に保つ。集中。何も関係のないものに。カップに注がれる紅茶。その様子は、あまりにも美しく。写真以外には捕まえられない、一瞬の光景。
「さあ、座って。話したいことが山ほどあるの」
部屋中央にあるテーブルが指し示される。俺は小さく頷きを返し、椅子に腰を掛けた。クッションが体重を受け止める。俺は足元に目を落とした。
ウォーレンがティーカップをテーブルに置いていく。一つ、二つ、三つ。あの守衛室と同じ匂い。凝り固まった心がほぐれていくのがわかる。
老婆がロッキングチェアから、俺の向かいの椅子へと移動する。先程よりもきびきびとした動き。若干の違和感。
最後にウォーレンが俺の隣に座り、老婆は笑顔で語り出す。
かつてこの家にいた、アルフという息子の話。アルフとの、俺との思い出話。
サミュエル・ウォーレンとカタリーナ・ウォーレン。そして二人の息子、アルフ・ウォーレンが、まだこの家で生活していたときの話を。
俺はカップの取っ手に指を絡める。陶器の滑らかさと、湯気の温かさに、段々と感情が凪いでいく。なるほど。確かにこれは、潤滑油などと呼ぶことはできないだろう。精神安定剤だろうか? どちらにせよ、美しさの欠片もない。
きっと、ここでの生活には、似合わない。
「それでアルったら、私に無断で教室を休んだのよ!」
「そんなこともあったね」
「そうなの。あなたも覚えてるでしょ?」
「ああ」
「もう昔っから頑固なんだから。でも賢いから、きっと戻ってくれると思ってたわ。お帰りアル!」
その笑顔は、花畑に踊る少女のようで。
俺の心のささくれが、はぎ取られていく。
隣に座る老人を見る。彼は紅茶を啜る。無表情に。
胸の中で煮えたぎる物は、決して放たれることはない。ヤカンに入っていた熱湯は、全て紅茶になってしまった。苦味も無ければ雑味もない。
「ただいま。心配かけてごめん」
目の前の老婆に笑顔を返す。かつて存在したあの女性に向けるのと同じような。それでいて、まったく別物の。
数年前に天の向こうへと旅立った、アルフ・ウォーレンとして。




