グリーン・レインボー -1
グリーン・レインボー
1
誰かにとって都合の良い雨が降った。
水滴が地面に吸い込まれ、褐色土を暗く塗りつぶす。雨音は打楽器からノイズのそれへ。俺は呼吸を飲み込む。
トウキョウ郊外、超能力者専用大規模演習施設。『ポイント・トゥ・ポイント』のロッカー。天上の神がバケツで水をぶちまけたような惨状に、俺は茫然と立ち尽くした。
「天気予報を間違えたか」
舌打ち。つい先ほど脱ぎ捨てたジャージの上を羽織る。踵を返し、傘をとって施設の出入り口へ。そのまま門へと向かう。
誰もいない空間。人っ子一人いないスペース。優越も空虚も感じることはない。今日の予定を脳内で修正しながら、大股で歩く。
演習施設の敷地外に出る。雨具を着た守衛の前を通り過ぎようとした途端、僅かに身動きする気配がして、俺は足を止めた。
視線を横に向ける。よく手入れされた髭に、グレーの髪が目についた。
「何か用か?」
「いえ別に。お帰りが早いのだなと」
「雨が降ってきたからな」
「それならば今日は、少し時間が余っているのではありませんか?」
「年がら年中余ってるよ。不登校だからな」
「おや、意外ですね。不登校の件はさておき、私には貴方が随分と忙しそうに思えたのですが」
「面倒な爺だな」
強い言葉。拒否の構え。老人には通じない。雨の中で柔和な笑みを浮かべ続ける。
俺は肩をすくめた。
「話を聞こうか」
「随分と素直ですね」
「話が通じる人間と通じない人間の違いくらい、俺にもわかる」
門の横の守衛室へと足を向ける。雨避けの下に入り、傘を畳む。軸を中心に回転。水たまりへと雫を飛ばす。
老人が近づくのと同時に、ロックされていた扉がスライド。彼に続く形で中に入る。ドアが閉まり、雨音が遮られた。
「どうぞ」
椅子を指し示してくる。俺は立ったまま壁に寄りかかり、両手を組み合わせた。
「お前。名前は?」
「サミュエル・ウォーレンと申します。趣味は……」
「お前の趣味なんてどうでもいい」
「失礼」
「俺は御影奏多だ。それじゃあ、手短に済ませよう」
「承知しました」
ウォーレンは軽く頭を下げると、手早く雨具を脱いで部屋の奥へと移動した。
部屋の様子を観察。これといった特徴なし。おそらくはプラスチック製の机に椅子が二脚。来客用だろう。奥には回転椅子と仕事机。紙のノートがある。珍しい。
水の音。雨じゃない。もっと静かで、絶え間ない。目を向ける。ポットに水が注がれてるのが見えて、俺は聞こえるようため息を吐いた。
「手短にと言ったはずだが?」
「ええ。可能な限りそういたします。ですが、初対面の方とすぐに会話を交わせるほど、私は器用ではありません」
「潤滑油が必要ってか」
「その言い方は少し面白味がありませんね」
「知らねえよ。それに、俺は紅茶もコーヒーも飲まねえぞ」
「まあ、そうおっしゃらずに。自分で言うのもなんですが、私はどちらも得意でしてね」
ウォーレンのいるキッチンへと目を向ける。レトロな器具の数々。歪曲したガラスが透明に光る。
俺は小さくため息を吐いて、近くにあった椅子に腰を掛けた。
「御影様は、とても優秀な能力者なのでしょうね」
「御影様って呼ぶな。というか、そんなこと、お前にわかるわけねえだろ」
「見ればわかりますよ」
「嘘だな。この場所から演習場の様子は見えねえ。俺が練習していることなんて、見たことないはずだ」
「ええ」
「ならどうして俺が優秀だとわかる」
「言ったでしょう? 見ればわかります」
ヤカンが甲高い声でわめきながら、白い湯気をまき散らす。ウォーレンは静かに立ち上がると、俺に対して背を向けた。
額に手を当てる。目を瞑り、ざらつく意識を沈黙に埋める。白の脳裏は、新たな音によって塗り替えられる。未知の音。作業音。湯の中で泡が弾け、カップで流体が踊る。瞼の裏に、瀟洒な喫茶店が映し出される。
カタンと、鼓膜が揺れた。目を開けると、カップの中で琥珀色の水面が揺れていた。
「紅茶です。葉は……」
「聞いてもわからないから解説はいらねえぞ」
「そうですか。では、どうぞ」
白磁の陶器。黄ばんでる様子は一切ない。取っ手に指を絡める。確かな重量を口元に運ぶ。息を吹きかける。自身の虚像が揺れる。唇をあてがい、傾ける。
口の中に熱が流れ、鼻孔を香りが通り抜ける。熱くもなく、温くもない。味の主張も激しくない。だが、無味なわけでもない。危うさを感じるほど絶妙なバランス。
カップをテーブルに戻す。ウォーレンと目が合った。
「いかかでしたか?」
「俺の好みじゃないな」
「そうですか」
「だが、悪くもない」
「それはそれは」
老人が相好を崩す。俺は目を逸らす。サミュエル・ウォーレンという人間の相手は、顔を見ない方がやりやすい。
「話をしよう。ウォーレン」
「はい」
ウォーレンが自身のカップを手に取り口に運ぶ。俺は指と指とを絡ませる。難解なパズルのように。
数秒の沈黙。視線を戻す。少し皺の寄った左手が、髭の曲線を撫でていった。
「旅行に興味はおありですか?」
「ないな」
「なぜ?」
「確認行為になるからだ。観光名所は映像が出回ってる。写真もVRもな。椅子に座ったままでも、世界を漫遊できる」
「紅茶を飲みながら?」
「それもいいが、麦茶の方が好みだな」
「お作りしましょうか」
返事の代わりにカップを手に取り、紅茶を啜る。ウォーレンの微笑みが、少し濃くなる。湯気が浮かんで、その笑みを隠す。俺は目を瞬かせた。
「ですか、世の中には観光名所ではなくとも、素晴らしい場所がございます」
「残念ながら、俺たちはこの列島に閉じ込められている。北に行けば気候帯が変わり植生も変化するが、それだけだ。これも確認作業になる」
「何より、旅行に行っている暇がない?」
「暇はある。学校に行ってないんだからな」
「繰り返しになりますが、私にはお忙しいように見えます」
「ただの作業だ」
「よりよい超能力者になるための?」
「違う。精神安定上の理由だ」
「なるほど」
ウォーレンが椅子から立ち上がり、またキッチンの方へと歩いていく。
俺はテーブルの上に頬杖をついた。
「納得するな」
「なぜです?」
「うざい」
「申し訳ありません。お詫びというわけではないですが、茶菓子はいかがでしょう」
クッキーの積まれた皿が置かれる。空気が揺れ動いているのがわかった。
「手作りか」
「はい」
「出来立てか」
「そうですね」
「天才か?」
「ちょっと意味がわかりません」
「急に辛辣になるな」
人差し指と親指で、クッキーをつまみ上げる。口の中に放り込み、咀嚼。手作りによくある粉っぽさは皆無。
また紅茶を啜る。ティータイムという文化に初めて触れた気がした。
窓の外では相変わらずの雨。しとしとと、じめじめと。湯気が浮かび上がる。意識がまた、この部屋の中に引き戻される。
「ぶどう畑に興味はありませんか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「それはそれは」
「この列島だと、工場での生産が主だと思っていたが」
「土地を消費する作物にも需要はあるのですよ。値段は倍以上に膨れ上がりますが」
「おまけに栄養価も味も工場さんの方がいい」
「はい」
「土に対する信仰だな」
「といっても、あのぶどう畑はワイン用のものです。山に囲まれた土地に、整然とぶどうの木が並ぶさまは、なかなかに圧巻ですよ」
「ああ。あの盆地の」
「ええ。そうなりますね」
「前から行きたいと思っていた」
「それは丁度良かった」
「で? お前はどうしたいんだ? まさか一緒に行ってホテルに泊まってとか言い出さねえよな?」
「いえいえ。あそこには、私の家がございまして」
「随分と遠いと思ったが、時間的には案外近いか」
「そこに招待したいと思うのですが、いかがでしょう」
「悪くない」
「それは良かった」
「それじゃあ行くぞ」
「今からですか?」
「何か問題でも?」
「いいえ」
「だよな。俺を招く理由は道中に聞くとしよう」
ウォーレンの白い眉がピクリと動く。彼は紅茶のカップから手を放して、テーブルをノックするように叩いた。
「もう少し打ち解けたかったのですが」
「突然見知らぬ爺にわけわかんねえ話をされた俺の身にもなれ」
それもそうですね、と、ウォーレンが笑う。裏表のない笑顔だと俺は思った。




