第3話 もう一回聞いてくる。
期末試験が終わって、最初の週末が近づいていた。
七月の校舎は、窓を開けても暑い。廊下からは部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてきて、試験前は静かだった放課後の学校はようやくいつもの騒がしさを取り戻していた。教室の一角で、運営班が机を寄せているところへ、出題班の朔と北川がやってきた。新クラスになってから北川が朔とよく一緒にいるのを見かける。
「場所の候補、俺たちでいくつか考えたんだけど」
校内図を机に広げながら、北川はそう切り出した。中等部校舎のあちこちに、赤い丸が九つついている。三年三組の教室が受付とゴールで、そこから校舎を回って問題を解いてもらう計画だったはずで、それにしては少し多すぎる気もした。
「問題はまだ考えている途中なんだけど、場所と数だけ先に決めたいんだよ」
朔が言うと、ここって廊下じゃない? と野口が丸の一つを指した。
「うん。でも、広いところなら掲示できるかなって」
「通る人の邪魔にならないかな?」
必要な物のリストを任された石原が、校内図を覗き込む。
「だから、できれば運営から一回先生に確認して欲しい。こっちは問題のほう詰めないといけなくて」
北川は申し訳なさそうな表情をしながら、両手を顔の前で合わせる。朔もちょっと遅れて軽く頭を下げる。
「確かに、申請を出す前に使えるかどうか確かめないとだよね」
千夏は、校内図に目を落としたまま、赤い丸を一つずつ追いながらそう答えた。
「掲示って、どれくらいの大きさになりそう?」
「まだ決めてないけど、A3くらいかな。今のところは一枚で一問のつもり」
「貼る? それとも立看板みたいにする?」
「……そこまで考えてなかった」
朔が北川と顔を見合わせたので、千夏はノートに「大きさ・置き方」と書き込んだ。顔を上げて、じゃあそれも見てくるよ、と言うと、朔は、頼む、と短く答えて、北川と教室を出ていった。
「見なきゃいけないなら、とっとと行こうぜ!」
根岸が立ち上がった。まだみんな揃ってないから、と千夏が言うより先に、小野寺が言った。掃除当番の坂上と中島が、まだ戻ってきていない。根岸は椅子に座り直したが、すぐに隣の藤田へ何か話しかけ始めた。
* * *
二人を待っている間に、小野寺が北川から預かった校内図を、職員室でコピーしてきた。九か所を八人で回るのは非効率だから、二手に分かれることにした。申請書を作る千夏と野口を分けて、残りはじゃんけんで決めた。結局、千夏の班は根岸と石原と坂上の四人になった。一本しかなかった巻尺は、小野寺たちが持っていった。
千夏たちの受け持ちは、特別教室のある西側の五か所だった。一つめの階段の踊り場は、思ったより狭かった。二つめの掲示板は、もう部活の勧誘ポスターで半分埋まっている。千夏は場所の名前の横に気づいたことを短く書き込んでいった。石原と坂上は丸のそばの壁や床を一つずつ見ていて、根岸は一人でどんどん先に歩いていた。
三つめの理科室へ向かう廊下の曲がり角に着くと、根岸が壁の前で両手を広げてみせた。
「ここなら置けるじゃん! これくらいのパネルだったら、全然余裕じゃね?」
窓が大きく、ほかの場所より少し広くなっている。巻尺がないので、根岸の腕の幅で本当に大丈夫なのかわからないけれど、確かにパネルの一枚くらいなら立てられそうな広さはあった。
「でも、ここ……」
坂上が壁の上の方を指差す。千夏もつられて顔を上げると、天井の近くに、小さな表示が出ていた。
「防火扉じゃない?」
石原が言った。振り向いた根岸は、よく分かっていない顔をしている。石原は、念押しするように続けた。
「だから、ここには物を置いちゃ駄目なんじゃないかってこと」
「でも、こんだけ空いてるぜ?」
「空いてるとか、そういう問題じゃないから!」
石原の声が少し大きくなった。根岸はもう一度壁と床を見比べてから、そっか、と頷いた。
「じゃ、梶谷先生に聞いてくるわ」
「え、今?」
千夏は思わず聞き返した。全部見てから、まとめて聞きに行けばいいのに。そう言いかけたときには、根岸はもう走り出していた。
「駄目だったら、この近くでほかに使えるところがないかも聞いてきて!」
背中に声をかけると、根岸は振り向かずに、おう、と片手を上げた。
ちゃんと伝わったのだろうか、と千夏は思った。防火扉の前が駄目なのか、パネルが駄目なのか、貼るだけならいいのか。自分なら、聞くことをまとめるのに。
この間にあと二つ見とこうか、と坂上が言って、三人は次のポイントに向かった。音楽室の前の壁は、窓の位置が低くて貼れる場所があまりない。千夏が「窓の下のみ」と書き、石原が床の非常口の矢印を見つけて、それも書いといて、と言った。最後の一か所も見終わったころ、廊下の向こうから大きな足音が聞こえてきた。
「どこいってんだよ、探したぜ!」
息を少し切らせて戻ってきた根岸は、なぜか笑っていた。
「防火扉の前は、パネル置いちゃ駄目なんだって!」
「ほら、だから言ったじゃん」
石原は少し肩を落としながら、根岸の方を向く。
「で、ほかに使えるところは?」
「え?」
「成瀬が言ってたじゃん。この近くでほかにないか聞いてきてって」
「……そうだっけ?」
「あんた返事してたじゃん」
まあまあ、と坂上が間に入って、それから校内図を見て、曲がり角のすぐ手前の壁の部分を指した。
「ここならいいんじゃない? 扉とは関係なさそうだし」
四人でさっきの曲がり角へ戻った。防火扉の手前には、何も貼られていない壁があった。少し狭いけれど、問題を書いた紙を一枚貼るくらいならできそうだった。根岸が、そうだな、と頷いた。
「もう一回聞いてくる」
「明日、ほかのとこと一緒に聞けばいいじゃん」
千夏が言うと、根岸は、怪訝な顔をした。
「今行ったほうが早えじゃん」
言い終わるより早く、根岸はまた職員室の方へ走り出していた。
「ちゃんと隣の壁って言いなよ! 私たちは教室に戻ってるから」
石原が呼びかける。
「分かってるって!」
根岸の背中を見ながら、石原がため息をついた。
「先生だって忙しいのに、同じ日に二回も行くことないじゃんね」
千夏は、返事をしなかった。
去年、展示計画書の提出日を一日間違えたときのことは、今でも覚えている。廊下で担任に呼び止められて、すみません、と頭を下げた。図書室で空いた欄を埋めて、下校時間ぎりぎりに職員室へ持っていった。間に合ったのだから、何も言われるはずはない。そう分かっていても、扉の前で、しばらく手が動かなかった。
一回でも、あれだけ嫌だったのに、根岸は平気な顔で同じ日に二回行く。
千夏は、根岸が最初に両手を広げた場所を見た。そこには何も置かれていなくて、防火扉の表示だけが、天井の近くに出ている。千夏は自分の図に目を戻し、防火扉の前についた丸に、斜線を引いた。
* * *
教室に戻ると、小野寺たちの班はもう机を寄せて待っていた。
「こっちは四か所とも、だいたい大丈夫そう。気になるとこは三つにまとめといたから、明日、梶谷先生にまとめて聞こうと思って」
小野寺がノートを開いて見せる。中島が測った寸法が、野口の字で一か所ずつ書き込んであった。その時、根岸が戻ってきた。
「あそこならいいって! 壁に貼るだけなら、申請していいってさ」
根岸は笑顔で胸を張った。千夏はそれには答えず、ノートに場所の変更と条件を書き込んでから、顔を上げた。二回も行って、二回とも笑って帰ってくる。先生に何か言われなかったのだろうか。それとも言われても平気なのだろうか。
「……何で笑ってんの」
低い声が出た。根岸が千夏を見た。
「え? だって、聞けたじゃん」
そういうことじゃない、と言いかけて、千夏は口を閉じた。じゃあどういうことか、と聞かれたら、答えられない。
「じゃ、じゃあ、とりあえずまとめようか」
小野寺が二つの班の図を机の真ん中に寄せた。千夏は、斜線を引いた丸のすぐ隣に、新しく小さな丸を書いた。
元の九か所のうち、そのまま使えそうなのが六か所、条件つきが二か所、使えないのが一か所。そこについては、代わりの候補も一つ見つかった。千夏はそれを北川から受け取った紙に書き込んでいった。
「これ、出題班に渡して選んでもらえばいいよね」
「うん。あとは向こうが何か所にするか決めて、それから申請書だね」
小野寺が答えたところで、根岸が机に両手をついた。
「じゃあさ、買い出し行ける?」
「まだ!」
石原が即座に言った。
「えー、まだかよ!」
「何買うか決まってないでしょ!」
「あ、そっか!」
根岸は、声を上げて笑った。




