第4話 言わなくて、いいです。
期末試験明けの七月中旬、放課後の並木道には、まだ何人もの生徒が行き来していた。試験が終わったせいか、歩いている生徒たちの声もいつもより大きい。高等部の校舎の方からは、窓を開けた教室の話し声まで聞こえていた。千夏は、梶谷先生から高等部の職員室に持っていくように言われた申請書類を封筒に入れて、並木道を上っていた。
ベンチに座っている人に気づいたのは、その途中だった。文庫本を開いて、少しうつむいている。ひかりだった。ほかにもベンチはいくつかあるのに、ひかりは千夏が通る側の端に座っていた。道を変えるには、もう近すぎた。
「あ。……千夏ちゃん」
ひかりが顔を上げた。頁のあいだに花の模様が入った薄い金属の栞を差し込み、文庫本を閉じる。千夏はベンチから数歩離れたところで立ち止まった。
「……こんにちは」
「久しぶり、だね」
「はい」
ベンチの隣には誰もいなかったが、ひかりは座るようには勧めなかった。千夏も、立ったままでいた。
「こっちに用事?」
ひかりの目が、千夏の抱えている封筒に行った。
「職員室に。文化祭の書類を」
「そうなんだ。階段上がって、一番奥の部屋。中等部と違って、ちょっと分かりにくいところにあるから」
「大丈夫です。聞いてきたので」
「……そっか」
ひかりは文庫本を膝に置いたまま、まだ何か言いたそうにしていた。千夏は、それを待った。
「運営なんだっけ。文化祭の準備、大変でしょ」
千夏の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
「まあ、それなりに。申請とか、予算とか」
「すごいね。私、そういうの絶対間違えるもん」
「……私も、去年、提出日を一日間違えて。遅れそうになりました」
「ああ、そうだったよね。去年、文化祭の日に聞いたっけ」
「よく覚えてますね」
千夏ちゃんが教えてくれたでしょ、とひかりが笑うと、つられて千夏の口元もゆるんだ。ただ、会話はそこで途切れた。
千夏はベンチの端に目を落とした。急いで届けなければいけない書類ではなかったけれど、これ以上立ち止まっている理由は、もう見つからなかった。
「学年だより、載ったんだってね。朔くんの」
「……知ってます。うちにもありましたから」
「そ、そうだよね」
ひかりの膝で、文庫本から垂れた紐が風に揺れた。千夏の目が、一度だけそこへ行った。
「表彰式の日は、雨、すごかったですね」
「ね。でも帰りは上がってて――」
ひかりの声が途中で止まって、あ、と小さく漏れた。
「あのね、千夏ちゃん。あの日は、志保さんに――」
「いいです」
平たい声が出た。ひかりの口が閉じた。
「……言わなくて、いいです」
――先輩が、もっと嫌な人だったら良かったのに。
千夏は会釈して、高等部の方へ歩き出した。角を曲がるまで、もう呼び止められることはなかった。
* * *
千夏の背中が角の向こうへ消えても、ひかりは閉じた文庫本を膝に載せたまま座っていた。待ち合わせの時間は、少し過ぎていた。続きを読もうとは思えなかった。しばらくして、坂の下から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「ごめん、待った? 北川に捕まってて」
朔だった。ひかりは顔を上げて、笑った。
「……ううん。全然」
朔は、ひかりの顔を見た。
「……顔色悪いよ」
「そんなことないでしょ」
それでも朔は、じっとこちらを見ている。
今日は町田駅前に新しくできたカフェに行く約束をしていた。その手の店には照れて入りたがらない朔が、珍しく楽しみにしていた。
「……ごめん、やっぱり、ちょっと頭痛い。今日は帰ってもいい?」
朔は手を伸ばし、手の甲をひかりの額に当てた。ひかりは少し体をこわばらせた。額に触れる手は、外の暑さより少し冷たかった。
「熱はないか」
そんなことは、ひかりの方がよく知っていた。
「……急に暑くなったからかな、今日」
「送る」
「いいよ、すぐそこだし」
「送るから」
朔は、ひかりが文庫本を鞄にしまうと、その鞄を取って先に歩き出した。ひかりは半歩遅れてそのあとについた。並木道を抜けると、道の片側だけに建物の影が落ちていた。朔は日陰の方を選んで歩く。いつもはもう少し速く歩くのに、今日はひかりに合わせていた。
自動販売機の前で朔が、水、と言って立ち止まった。返事を待たずに、朔は硬貨を入れた。そのあいだ、ひかりは坂の上の、並木道の出口のあたりを見ていた。制服姿の小柄な女子が一人、こちらへ下りてくる。手には何も持っていない。その足が、一度だけ止まったように見えた。けれど、すぐに中等部の校舎の方へ曲がっていった。
「ひかりちゃん?」
目の前に、朔から差し出されたペットボトルがあった。
「……ありがと」
「ゆっくりでいいから」
ボトルは、指が冷たくなるほどよく冷えていた。
森野家の前まで来ると、朔は鞄を返した。
「帰ったらすぐ寝ろよ。スマホ見ないで」
「うん。明日には治ってる」
「治ってなくても連絡して」
「……うん」
「カフェ、今度な」
朔はそれだけ言って、坂を下りていった。振り向かず、まっすぐ歩いていく。その背中に向かって、ひかりは手を少しだけ上げ、門を閉めた。
玄関には結の靴があって、台所の方からは皿を重ねる音が聞こえた。普段ならそこで声をかけるのに、今日はそのまま二階へ上がった。部屋のカーテン越しに、夕方の光が差している。ひかりはベッドに座り、鞄から文庫本を出して机に置いた。紺色の紐が机の端から垂れる。そこへ目を向けないようにして、ひかりはベッドに倒れた。
表彰式の数日前、志保から電話があった。
「ひかりちゃんも来なさいよ。家族だけじゃ、朔、余計に緊張するから」
「……いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ。彼女なんだから」
土曜日は朝から雨が降っていた。金井家の白いミニバンに乗ると、窓ガラスを雨粒が次々と流れていた。会場では、ロボットのような足取りで壇上へ向かう朔を見て、隣に座っていた望と顔を見合わせて笑った。式が終わると、雨は上がっていた。植え込みの前で、望がスマートフォンを構える。ひかりは一歩下がり、望が写真を撮るのを見ていた。
目を開けると、カーテンの向こうは暗くなっていた。階下から、母の呼ぶ声がした。ひかりはすぐには返事をせず、もう一度呼ばれたところで体を起こした。
夕飯を済ませ、風呂に入って部屋へ戻ると、ひかりはタオルで髪を拭きながら机の方へ歩いた。スマートフォンに通知が二件届いていた。
一件目は朔からだった。
《頭どう? 寝てたら返さなくていい》
二件目は二十分前。千夏からだった。ひかりは千夏の方を先に開いた。
《さっきは、すみませんでした。態度悪かったです》
ひかりはそのまま返事を打った。
《ううん。会えてうれしかった》
すぐに既読がつき、少し間を置いてメッセージが届いた。
《運営、やっぱり色々大変です》
《うん。がんばって》
しばらく何も来ない。ひかりはスマートフォンを机に置き、髪が乾くまでドライヤーをかけた。スイッチを切って戻ると、新しいメッセージが来ていた。
《表彰式のこと、聞きたくなったら、聞きます》
ひかりは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
《わかった。おやすみ》
少しして、頭を下げているキャラクターのスタンプが一つ届いた。
ひかりは朔とのトークを開いた。
《治った。心配してくれてうれしかった》
送ると、すぐに既読がついた。
《寝ろ》




