第2話 裏、見た?
月曜日の朝は、晴れていた。
昇降口で靴を履き替えて階段を上ると、三年三組の教室からは、もう何人かの話し声が聞こえていた。千夏は入口で一度、足を止めた。自分の席で、鞄から教科書を出している朔の姿が目に入る。望が送ってきた写真ではずいぶん緊張した顔をしていたけれど、今日はいつもの朔だった。おはよ、と通りかかった女子に声をかけられて、慌てて返しながら、自分の席に鞄を置く。
あの言葉は、昨日の夜、さらにもう一度口に出していた。ちゃんと普通に言えたし、今朝も、家を出るときには大丈夫だと思っていた。でも、こうして朔を前にすると、何だか難しい気がしてくる。机の中へ教科書をしまい、筆箱を出した。その場に立ったまま、少し間をおいてから、朔の机の横に向かう。
千夏の気配に気付いたのか、朔の手が止まり、顔が上がった。ちゃんと顔を見るのは随分久しぶりだった。
「……朔。表彰式……おめでとう」
朔の表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
「ああ。……ありがと」
それにホッとして、用意していなかった言葉が、口をつく。
「望に写真、見せてもらった。緊張してたでしょ」
「まあ、ちょっと」
「ちょっと?」
「……結構」
顔かたかったもん、と千夏が少し笑うと、写真だけで分かるのかよ、と朔も少し笑った。でも、会話はそこで途切れた。
表彰式がどんな様子だったのか、聞いてもよかった。図師先生も来ていたのだろうか。賞状をもらうとき、何か言われたのだろうか。聞きたいことはいくつもあるのに、どれから聞けばいいのか分からない。
千夏が、それじゃ、と自分の席へ戻ろうとした時、廊下の方から大きな声がして、根岸が鞄を肩にかけたまま入ってきた。
「金井! 土曜日どうだった? 緊張した?」
「まあ、したけど」
千夏は、朔がほんの少し顔をこわばらせた気がした。それに構わず根岸は笑って鞄を自分の机に放り出すと、急に真顔になった。
「あのさ俺、土曜日から気になってたことあんだけど」
朔が少し身構えて、何だよ、と言う。
「賞状の裏って、見た?」
朔が黙った。千夏も思わず根岸を見た。
「……裏?」
「当たりって書いてあるかもしんねえじゃん」
「……アイスの棒かよ!」
「いや、でも確認した?」
「してねえよ!」
「じゃあ分かんねえじゃん!」
「当たりだったら、どうなんだよ」
「え? もう一枚もらえるとか」
「賞状を? 二枚もらってどうすんだよ」
根岸は少し考えた。
「……一枚売れる?」
『売るな!』
声が揃った。朔と目が合った千夏は、堪えきれずに吹き出した。朔も笑っていた。根岸は、何がおかしいんだよ、と言いながら、自分でも笑っている。そこで予鈴が鳴った。
「金井、今度賞状持ってこいよ! 裏をチェックするから!」
「絶対持ってこねえ!」
もういいから座れよ、と朔に言われても根岸はまだ何か言いたそうだったが、廊下に担任の姿が見えたので、ようやく椅子に座った。
千夏も自分の席に戻った。教科書を机に置くと、少しずれていたので端を揃えた。前の方では、根岸が隣の男子に、賞状の裏に当たりがあったらどうするかという話をしている。どうやら、本当に気になっているらしい。根岸ってバカすぎ、と言って笑う女子の声が後ろから聞こえてきた。
* * *
六時間目の学級活動で、担任が黒板に大きく「文化祭」と書いた。
「まだ六月ですけど、今年の文化祭について、そろそろ決めていきます」
早くないですか、十月ですよね、と教室のあちこちから声が上がった。担任が黒板の隅に書いた日程は、例年どおり、十月上旬の二日間だった。
「そうです。ただ、中等部としては最後の文化祭ですし、企画と担当班だけは今月中に決めておきましょう」
いくつか案が出て、黒板には、展示、映像制作、謎解きラリー、の三つが残った。謎解きを出した男子が立ち上がって説明した。三年三組の教室を受付とゴールにして、中等部の校舎を回りながら、何か所かに置いた問題を解いてもらう。全部解けたら、ちょっとした記念品を渡す。
「それ、楽しそうじゃん!」
また根岸の大声だった。その後、問題数や、出題レベルについて次々に意見が出た。教室がざわつく中で、千夏は去年の文化祭を思い出す。教室で写真や模造紙を使った展示だけでも準備は大変だったのに、校舎全体を使うとなるとその比ではない。まず掲示物を用意して、それから置く場所を決め、さらに許可を取る。当日も受付や人の配置を考えなければいけない。最初は面倒そうだと思ったけれど、段取りを考えていくうちに、だんだん面白くなってきた。
結局、多数決で謎解きラリーに決まると、クラス内での役割分担に議題は移る。
「問題とヒントを考える出題班。掲示物や小道具を担当する制作班。広報班にはポスター作りと当日の案内などをしてもらいましょう。それから予算や場所の申請、備品の準備など計画を支える運営班。受付と巡回も運営がメーンで、状況によっては広報にもお願いするつもりです。希望する班に、自分で名前を書いてください。人数が大きく偏ったら調整します」
受付だって、と前の方で根岸が隣の藤田に言うのが聞こえた。担任が黒板をチョークで四つに区切ってそれぞれの班の名前を書き、教卓近くにある椅子に座ったのを合図に、何人かがさっそく席を立った。千夏はすぐには動かなかった。
――朔は、どこに入るんだろう。
そう思って顔を上げると、ちょうど朔が黒板の前で、出題班の欄に名前を書いているところだった。やっぱり、と思った。歴史の自由研究で賞を取るくらいなのだから、こういう企画なら、問題作りを選ぶだろう。別の男子が朔に何か話しかけ、朔が頷くと、その男子も出題班に名前を書いた。
――私は、どうしよう。
去年は展示係だった。じゃあ制作班、と思ったところで、展示計画書の提出日を間違えたことを思い出す。
次間違えなきゃいいじゃん。
あの後で朔にかけられた言葉が頭に浮かんで、千夏は席を立った。順番を待ちながら運営班の欄を見ると、女子が二人、男子が一人、もう名前を書いている。チョークを取って、運営班の欄に手を伸ばした、そのときだった。
「俺、運営! 受付、やってみてえ!」
後ろで根岸の声がした。どうしたの根岸、と近くの女子に聞かれて、いらっしゃいませーって言ってみたいじゃん、と根岸が答え、お店じゃないし、と笑う声が聞こえてくる。千夏の手が、一度止まった。隣の制作班の欄には、まだ人数に余裕がある。そっちにしようか、と一瞬思った。でも、せっかく自分で決めたのに、根岸がいるからというだけで移るのは、何だか癪だった。別に、二人だけで仕事をするわけじゃない。千夏は、そのまま名前を書いた。
千夏がチョークを置くと、根岸がその下に自分の名前を書いた。やけに大きな字だった。もうちょっと小さく書けばいいのに、と千夏は思った。
* * *
放課後、運営班に決まった八人は教室に残った。来週までに、仕事の分担を大まかに決めるよう言われていたからだ。机を寄せてノートを開くと、場所の申請、予算、受付の机を借りる申請、とどんどん仕事が増えていく。
「私、予算と申請書類やるよ。去年も計画書やったから」
千夏がそう言うと、隣の席の野口が、一人だと大変じゃない、私も手伝う、と手を挙げた。書記役を買って出た小野寺が、二人の名前を書き込む。
「じゃあ、買い出しは?」
「俺やる!」
根岸の手が、誰よりも早く上がった。
「……まだ何を買うか決まってないよ」
「決まったら買えばいいじゃん! あと、運ぶのとか得意だし」
「荷物、けっこう多いかもしれないよ」
根岸の隣の女子が言った。根岸は少しも考えずに答えた。
「じゃあ二回運べばいいじゃん」
二回って、と誰かが笑い、話が早いんだか遅いんだか分かんない、と小野寺が肩をすくめた。まだ何を買うか決まってないと言ったそばからこれだ、と千夏は少し苛立って、黙ってシャープペンの先を見ていた。
「先に必要な物のリスト作らないと。何がいくつ要るか分かんないでしょ」
端の席の女子が言うと、そうそう、と何人かが頷いた。
「なるほど。じゃあ待ってるわ。決まったら俺が行くから」
「買うときは、ちゃんと領収書もらってね」
千夏が言うと、根岸は首をかしげた。
「領収書の名前って、俺の名前でいいの?」
「何で根岸の名前なの」
小野寺が、呆れた声を出した。
「いや、俺が買うんだろ?」
野口が吹き出した。お前、絶対一人で買いに行くなよ、と根岸を挟んで反対側にいた藤田が笑う。
「変なもん買ってきそう。去年も段ボール、余計に持ってきただろ」
藤田の言葉に、あれは貰ってきたやつだし使うと思ったんだよ、と根岸が言い返す。男子が笑い出す中で、千夏は黙って手元のメモに「領収書」と書き足した。
結局、備品の準備と買い出しは根岸と藤田、申請書類と予算は千夏と野口が担当し、お金の取りまとめは千夏がすることになった。必要な物のリストは言い出した女子がもう一人の女子と作り、当日の受付と巡回の割り振りは、小野寺と残りの男子が引き受けた。
「リストできたら成瀬に見せればいいんだな。じゃ、俺帰るわ!」
「……まだ先生に確認することあるんだけど」
「あっ、そうだった!」
戻ってきた根岸を見て、また誰かが笑ったけれど、千夏は笑わなかった。代わりに、メモの「領収書」の下へ一本線を引いた。
* * *
校門を出ると、朝にはなかった雲が空に広がっている。千夏は一人で坂を下った。
土曜日の夜に、自分で言うと決めたことは、ちゃんと言えた。朔も、ありがとうと返してくれた。なのに、そのあとは何を話せばよかったのだろう。図師先生が来たのかどうかも、結局聞けなかった。
でも、朝の会話を思い出そうとすると、別の声が割り込んでくる。
賞状の裏って、見た?
「……あいつほんっと、バカ」
千夏は小さく呟いた。
受付はいらっしゃいませと言うだけだと思っているし、まだ何も決まっていないのに買い出しをやりたがるし、領収書には自分の名前を書くつもりでいるし。
十月まで、あと三か月以上もある。考えるだけで、少しうんざりする。けれど、そう考えているうちに、それまで何を考えていたのか、分からなくなった。
――何だっけ。




