旅の始まり
使えそうな木桶にロープを結び、水を確保する。透明な水からはおかしな臭いなどはしなかった。綺麗な地下水であるらしい。
その水で色々なことをした。
服を洗い、体を洗い、喉を潤す。申し訳ないが他に括れる場所もない為、ロープを像と窓に括り付け、そこで服装や外套を干す。頬に走った傷がかなり痛むが、もう治りかかっている。少なくとも血は流れていない。
携帯食料も海水に濡れてはいたが、まだ食べられる。火を起こせる場所を掃除し、枯れ草を集め種火を点け、枯れ木に火を移していく。枯れ木は嫌によく燃えた。井戸を掃った際の蔦などもよく燃える上、妙な臭いもしない。とりあえずは安全だろう。
「……飯、これくらいしかないな」
『そこいらのものを食えばよい。腕もお前の体にもなじんだ。もう何を飲み食いしても大丈夫だ』
「……そうか」
なんとなく応じて、ゼルクは携帯食料を包みから取り出す。食料はエルフが作ってくれた干し肉だった。軽く炙ってから口に含むと様々な花の香りがして、非常に美味しい。
だが食べているとなぜか涙があふれて来た。エルフの村での日々が思い起こされる。クラウやハーラ、セリオンやエナム。エスターには歓迎はされていなかったけれど、決して蔑ろにされることはなかった。
「……あ」
泣きながら食事を続けていると、転がっている箱を見つける。先ほど泣き崩れた時にここに転がしていたか。
箱を拾い上げ、じっと眺める。よく見れば手順が解りそうだった。これも魔皇の感覚のお陰だろうか。箱に使われた様々な木材が微妙にかみ合っていない箇所がある。それらを動かしていくと、やがて箱が開いた。
中には手紙が一通と、小さなハンカチが入っていた。
「……ハンカチ」
『エルフの刺繍だな。贈り物だろう』
「手紙は」
中には水が溜まっており、紙も濡れている。だが頑丈な繊維でできており、破れる恐れは無さそうだ。中に書かれている文字は樹液で書かれており、濡れても滲みは少なかった。
『開封、お疲れさまでした。そしておめでとうございます』
『前にも説明ましたが、エルフたちは成人の儀でこの封印箱を送ります』
『もしも、ゼルクさんが成人した後また里に寄っていただければ、その時にはもっと造りの良い箱を送らせていただきます』
「……」
もしも。その文言を見て、ゼルクはその手紙を握りつぶしそうになった。力が入りそうになった瞬間に手を開き、手紙を地面に落とす。
二度とそんな未来は来ないだろう。エルフたちは皆殺しに近い。残った僅かなエルフたちがあの都市を再建できるまで、果たしてどれほどかかるものか。
呼吸を整え、手紙を拾い上げる。そしてからハンカチを軽く絞って海水を出す。
『同封したハンカチは細やかながら贈り物です』
『拙いものではありますが、旅に出る時お役に立てていただければ』
『エルフの刺繍はどれも意味がありますが、今回は花を2つとさせていただきました』
『意味に関してはいずれ里に戻った時にお教えいたします』
刺繍の入ったハンカチには確かに2種類の花が添えられている。一つはゼルクも知っている白水仙だった。だがもう一つ、六つの花弁からなる青い花は知らない。
目頭がまた熱くなってきた。軽く拭い、鼻をすすりながら続きを読む。
『ゼルクさんはきっと長い旅に出ます。私はそれを確信しています』
『ですが、忘れないでください』
『この里を第二の故郷と思って、どうか長い旅を超えてください』
『戻ってきたら、ウルシュ様やエスター様と共に、色々な話を聞かせていただければ幸いです』
『追伸:お土産は肉以外でお願いします』
その言葉を見た瞬間、ゼルクの瞳からはとうとう滂沱の涙があふれて来た。
手紙に込められた再開の約束は、二度と叶わないことを悟ってしまった。セリオンが近くの避難所に逃げるということをゼルクは覚えていた。
そうして暫く泣きはらして、また気づかぬうちに意識を失う。次に意識を取り戻したとき、火は既に消えており、空は白み始めていた。
夜明けが来る。真っ赤な目のまま、ふらふらとした足取りで立ち上がり、隅にある井戸から水を拝借して顔を洗う。それからぼんやりと廃墟の壁に腰掛け、海を眺めていた。
夜闇の世界が赤らみ、白く変色していく。波が少しずつ強くなっていた。
「なあ、魔皇」
白んでいく空を眺めながら、ゼルクはぼんやりとした口調で魔皇に話しかけた。
『おう』
「国を興すって、どうすればいい?」
『大勢に認めさせることだ。お前が相応しいと。当然やるべきことは多い』
「全部やる」
魔皇の言葉に、ゼルクは即座に応じた。
「それがどれだけ困難で、不可能に見えても、俺は全部やるよ」
『そうか』
「だから、力を貸してくれ」
『いいだろう。その覚悟を受け取ろう』
魔王の解答は端的だった。ゼルクはそれで構わなかった。
やがて海の果てに曙光が差す。
暗い海が美しい青で彩られていく。ゼルクは立ち上がり、鮮やかに色づく世界を忸怩たる思いで眺めていた。もう二度とこの夜明けに立ち会えない者たちがいるのだと、彼は悟っていた。
ゼルクが知る限り、明日を奪われた者たちに罪などなかったはずだ。エルフの皆も、村の皆も。亜人というだけで唾棄すべき悪徳とされ、彼等は殺される。
どうしても許せなかった。胸の内が熱く燃え盛るのを感じる。エルフの森にいた時にも感じた、正体不明の熱量。
その感情を、多くの者は怒りと呼んだ。
そしてゼルクも今、その名前で。
「魔皇、いつか聞いたな。許せるか、憎めるかと」
『ああ』
「奪われた全部はもう取り返せない。命は絶対に戻らない」
『そうだな。返済は殺した側には絶対に不可能だ』
「だが、奴らから同じものを奪うことはできる」
『いつかのお前はその答えを否定したな』
「ああ。でも――」
でも。
ゼルクはそこでいったん言葉を切った。陽光がゼルクの目を焼いた。
瞳を閉じると、燃える森が蘇る。耳には悲鳴と絶叫、そして助けを求める声がこびりついていた。恐らくもう消えることは無いのだろう。
もう一度目を見開いた時、ゼルクの瞳の奥には同じ炎が揺らいでいた。
「――焼き尽くす。奪った連中の何もかもを。支払わせる。奴らが奪った全てを」
『女神の平和はもう不要か』
「その女神が今の世界を作ってるなら」
立ち上がる。海風が強く吹き、ゼルクの髪の毛を強く散らした。
家族は死んだ。村の皆は死んだ。エルフは死んだ。なぜ。考えるまでも無かった。
「それが、あの炎を産むなら――俺は、女神を許せない」
ゼルクは曙光に背を向けて歩き出す。
その歩みは、昨日まで少年だった全てを忘れ去させる、力強いものだった。
時に、新女神歴三百十八年。
魔皇が胎動したことに気が付いたものは、極僅かであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
これにて【白紙の日々】本編終了です。
幕間の物語が少々ありますのでまだ完結、というわけではありません。とはいえ幕間は三つなのですぐに完結予定ではあります。
全てを失い、得たものは腕一本だけ。善く育った彼は、とうとう復讐の連鎖を連ねることを選びました。
どうかここまで読んでいただいた方、評価を頂ければ幸いです。
それでは次回、またお会いしましょう。




