流れ着いた先
ゼルクが目を覚ましたのは、全く知らない海岸だった。
波打ち際では海水が体を飲んではどこかへと去っていく。微かに鳴る波の音が妙に心地よい。全く知らない光景に、体を起こして思わず辺りを見回してしまう。気が付いた瞬間、頬がやけに痛んだ。
背後で、一際大きい波音が立った。振り向くと、巨体が身を翻してどこかへと去っていくのが見えた。見えたのは純白に近い体と、巨大な尾びれと背びれであった。
「――なん、だ?」
『竜だ』
「うわっ!?」
脳裏に突然声が響く。辺りを見回すが誰の姿もない。聞き覚えのある声は特に斟酌せず言葉をつづけた。
『お前が吹き飛ばされて、気絶してから二十二時間……ああ、正確には二十二時間と二十五分だ』
「……ほぼ、丸一日……エルフは!?」
聞き覚えのある声は魔皇のものだった。なぜ声が聞こえているのか、と疑問を抱く前に、まずあれからどうなったかが気になった。
最後に覚えているのはウルシュに思い切りブレスを吹かれた瞬間だった。直前に勇者がありえない力を発揮した覚えがある。勝利の可能性さえ見えた瞬間の逆転であった。
『流石に知覚範囲外だ。とはいえ』
魔皇は静かに事実だけを告げる。
丸一日経過している。竜もおらず、勇者とインソムニアの2人がいるとなれば全滅は免れないだろう。捕縛で済めばよいほうだろうな。
ゼルクは思わず全力で歯噛みする。地面を叩くと細かい泥の中に沈んだ。
「……魔皇」
『距離はできた。暫くお前は無事だろう』
「――そう、か……」
事実を確認すると一瞬で力が抜けた。喉の奥から奇妙な唸り声が溢れる。やがてその声は絶叫に変わった。
しかしゼルクに嘆いている暇などなかった。突然黒い影がかかり、ゼルクを押しつぶそうとしてきた。慌てて転がって回避する。
「なんっ……蟹!?」
辺りの泥が散らばる。そこにいたのは巨大な蟹だった。
ゼルクも見たことがある。村に流れる河には僅かに生息していた。だがそこにいた蟹は手の平よりもまだ小さいものばかりだった。
流石に爪の大きさがゼルクの体よりも大きい蟹など見たことが無い。全身赤茶の体に、右の爪だけがやたらと大きい。自分の体程もあるのではないか。八本の足も体に合わせて途轍もなく大きかった。足で踏み込まれただけでゼルクの体等、四散しそうだ。
『無暗に動いた上、地面なんぞ殴るからこうして出てくる。大人しくしていれば出て来なかっただろうに』
「うるっさいなコイツ! とりあえず逃げるぞ!」
踵を返してゼルクは逃げ出す。無駄な争いは好むものではない。
走りづらい柔らかすぎる泥を抜けて、岩石地帯を抜けると、妙に赤茶けた大地に出る。蟹はそこまではついてこなかった。海へと戻っていく。
「……蟹……? ていうか、デカい湖……」
『蟹だ。食えたものではないだろうがな。あれは海だ。ウルシュがそこまで吹き飛ばしてくれた』
「海」
ハーラに聞いたことは覚えていた。見てみたいとは思っていたが、このような形で見ることになるとは思っていなかった。
「これが」
ゼルクの声には浮ついたものも混じっていた。当然だ。気分は間違いなく高揚している。だが同時にどうしようもない無力感と寂寥感があるのも事実だった。
それにしても海は妙に汚らしい。全体が黒く染まっているようにさえ思える。蟹は海の上をすべるように進み、岩陰へと戻っていく。鋏と足を畳むと、最早岩にしか見えない。
いや、そればかりではない。ここは土地も汚らしい。土地は赤茶けて痩せており、生えている低木も細く、枯れてばかりだ。地面に生える草も萎れており、溜まった水は腐っているようにも見えた。少なくとも辺りには生物は殆どいない。
「……」
『日は高いが、とりあえず休める場所を探した方がいいだろう』
魔皇の言葉に、ゼルクはとりあえず頷いた。全身が妙にべたついて気色悪いというのもある。当然だが服も全て水で濡れていて、非常に重たい。
「……なんか、普通の水よりべたべたする……?」
『海水だからな。当然だろう』
「そう、なのか?」
『そういえば知らないんだったな。海水には色々と含まれるから、真水よりべたつくんだ』
ゼルクは頷いた。そこまでは教えられていなかった。ハーラには随分と色々教えてもらった。
辺りを見回すと、高くなった場所、崖の間際に朽ちた建物があった。石づくりの建物のようだった。重たい足取りで建物に向かう。
その建物は教会のようだった。
広い建物はどこも朽ちているが、屋根の一部や壁はまだ残っている。建物の奥には巨大な像が置かれている。女神像ではない。だがそれも酷く朽ち果てていた。かつては水晶板がはめ込まれていたであろう窓は全て吹き曝しになっており、形を保っている長椅子はない。そして建物のあちこちにはよく解らない植物が生えている。壁の一部が白くなっているのは海水が吹きつけた名残だろうか。
中庭と思しき場所には毒々しい色の植物が蔓延っていた。庭の隅には井戸があり、中央には石で円が描かれている。
『かつてはここで火を炊いていたのだろうな』
魔皇が見解を示す。火。クラウとハーラと旅していた頃、火はいつも。
「……――ぅぁ」
それを思い出し、ゼルクは膝をついた。全身から力が抜け、涙がぽろぽろと零れてくる。体が崩れるのを堪えられなかった。顔面を抑え、荒くなる呼吸を抑えた。
クラウはもういないのだと、ゼルクは改めて気が付いた。殺された。目の前で、燃やし尽くされた。悲鳴さえ上がらなかった。
震える手で外套を握り締め、ぎしりと力強く引っ張る。外套を結んでいた紐がほどけて、外套が音を立てて落ちた。
外套には幾らか道具が入っている。戦争が始まる前にクラウやハーラ、それにエナムたちからどこへ行っても大丈夫なようにと道具を詰め込まれたのだった。小さな刃物、あれば便利なロープ、火打石、少しの食料と前の旅で作ったノークの瓢――それに、いつかセリオンから貰った寄木細工の封印箱。
ゼルクはそれから一時間以上、泣き続けた。すすり泣き、呻き、時として頭を思い切り掻き毟り、意味の分からぬ悲鳴を上げ、やがて意識を失った。
ゼルクが意識を取り戻した頃には、日が傾き始めていた。体も大分乾いていた。そこでようやく辺りが温暖であるということに気が付いた。吹き付ける海風は暖かさを含んでいる。
『起きたか』
「……ああ」
泣きはらした瞳で、虚空から聞こえてくる声にゼルクは応じた。
魔王の声はどこまでもいつも通りだった。
『真水が必要だな。井戸を見てくれ』
魔皇に言われるまま立ち上がり、虚ろな足取りで隅に安置された井戸へと行く。一応井戸だとは解るが、一目見て解ったのが不思議なほど毒々しい色の蔦が蔓延っており、土砂や砂で半ばが埋もれている。蔦を引きちぎり、無理やり覗き込んでみると、当然のように井戸は枯れており、黒々とした穴だけが口を開けていた。
大仰にため息をついて穴から顔をそらす。黒い穴は覗き込んでいるだけで、落ち込んでいた気が更に滅入っていきそうだった。
「……水、無いな」
『どうにかできる。不便なことに、海水だけでは生物は生きていけない。海に住む者たちですら。手を翳せ』
「え、ああ」
魔皇に言われるがまま、井戸の上に手を翳す。魔皇は一秒程黙り、すぐに口を開く。
『長年の土砂の堆積と整備不足だな。水脈が枯れているわけではなさそうだ。ならば無理やり引き起こせる』
突然、腕が重たくなったように感じた。それと同時に堆積した土砂が吹きあがってくる。ゼルクが困惑している間に土砂は泥水となり、やがて真水となった。
何が起きたか解らない。だが井戸に溜まった水は夢などではなさそうだった。
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