混乱の始まり
「!?」
「ゼルク!?」
「どうした!? クソ――ヴァリス! ヴァリス! 見ているんだろう! 何人か寄越してくれ! ゼルクが倒れた!」
ゼルクが倒れ込み、腕が音を立てて変形する。
腕は瞬きの間に細かく分解され、ゼルクの体を滑っていく。やがてそれはゼルクの失われた右腕を新たに形どった。無かったはずの腕が完全な形で再現されている。
ゼルクの意識が失われていることは一目で解った。エナムの声に樹上の気配が一つ、動き出す。人を呼びに行ったのだ。セリオンは目を見開き、口元に手を当てて固まっていた。
ウルシュがゼルクを転がす。ゼルクの顔は汚れているだけで穏やかなものだった。未だに腕の部分で音が立ち、更に体の表面を銀色の粒子が這いまわっている。
「これは……セリオンーーいや、エナムだな。セリオンは残れ。エナム、エスターに伝えろ。すぐに女子供を逃がし、臨戦態勢に入れ。軍が動くまで五時間……いや、奴等ならばもっと早いか。三時間だ。三時間で準備を済ませろ。逃げる民の荷物は最低限でいい」
「あ……はい! 承知しました。女子供を逃がし、臨戦態勢、三時間以内。ウルシュ様の名前を出させていただいてよろしいでしょうか」
エナムは混乱から立ち直ることなく、だがウルシュの言葉を復唱する。竜の言葉はこの里のエルフに取って絶対であった。
不安も、疑問も抱く必要はない。混乱は命令に代わり、躊躇は行動に変わる。ウルシュは即座に頷いた。
「結構だ、急げ。ここの防備は不要だ! 総員、里に戻り、戦に備えろ!」
ウルシュの返答と共に、エナムは正に風になって駆け出した。森の中を自在に走っていく。彼は一流といっていいフォレストワーカーであった。ゼルクの身柄については考えない。竜の傍にいる以上、ここが一番森で安全な場所であった。
続けてのウルシュの一喝に、森がざわめいた。風が騒ぎ、枝が揺れ、潜んでいた気配が次々と動き出す。
誰一人叫ぶことなく、慌てることなく、だが気配を隠す余裕もなく森を走って行く。竜の指示である上、ウルシュの声には緊張があった。緊急事態であると嫌でも信じるしかない。
そんな中只一人、セリオンだけが不安そうにウルシュを見ている。竜は軽く息を吐き、言葉を紡いだ。
「命に別状はない、心配するな」
「……?」
「クソ、聞くべきだった。どんな波長が見えているのか。黒い糸が見えているというだけでフィルと同じものかと決めつけた」
迂闊だったな。ウルシュは嘆き、軽く体を揺らして寝そべる。
「?」
「二時間程眠りにつく。可能であれば、セリオン。飯を用意しておいてくれ。肉があれば尚良い。ゼルクはここに横にしておいていいだろう。後で人も来る」
「……」
セリオンは頷き、一礼をして去っていく。最後にゼルクの方を心配そうに見ていた。
幾ら言っても無駄だろうが、心配はいらない。恐らくそれほど長い時を経ずに目を覚ますはずだ。
「……女神には知られた、だろうなぁ。これほど派手に動くとは……全く、フィルの時は只形を変えただけだというのに……アイツは個人に興味はないし、只単に波長が合う……くらいか」
ウルシュ軽くぼやいて納得し、眠りについた。起きた後は決戦だ。力を蓄えておかねばならない。
女神は間違いなくこの地に最大戦力を送り込む。魔皇がいると解った以上はそうするはずだ。
女神が本気になれば魔皇の力を継いだゼルクが逃げるだけで精いっぱいだろう。目覚めてすぐ全ての力を振るえるものなどそうはいない。
そうであるのならばなるべく未来を継ぐ努力をせねばなるまい。戦争など三百年ぶりだ。懐かしい夢を見ながら、少しの間眠るとしよう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
申しわけない。本日大分短いです。ですが混乱は始まりました。




