竜との対話_03
黒い糸を辿り、森を歩くのも随分と慣れて来た。セリオンの助言もあり、樹の傍はなるべく歩かないように注意する。
よく見ると苔が生えている樹はかなりの数がある。その全てがドリュアードというわけではないだろうが、意識して着飾っているのもいるだろう。
ウルシュはいつもの通りにしていたが、少しばかり位置が変わっていた。普段は祠の左側で寝そべっているが、今日は右側にいる。背中に翼が見えていた。畳んでいる表は黒いが、裏側は暗い蒼だった。
「こんにちは、ウルシュさん」
「おう」
「はぁ、それにしても……片腕って不便ですよね」
「開口一番に今更な話をしてきたな。魔皇の腕を受け入れれば義手替わり以上に機能すると思うが」
ウルシュが呆れ気味に応じる。当然の話であった。ウルシュは翼を失い空を飛ぶことすらできない。
「まあお前只の人間だし、手足は生えてこないよな……」
「生えてくるものなんですか」
「……一応俺は生えるな。翼はちょっと事情があるが、大概の傷は治るぞ。とはいえ、まぁ、エルフとか、ドワーフとかは……生えてくるところは見たことが無いな」
それは良かった。ゼルクは心底からそう思った。人間だけが余りに弱いのかとも思った。
いや、人間は弱い。それは事実だ。あるいはゼルクが特別弱いのかもしれない。
強ければ。
そう考えそうになり、ゼルクは少し頭を振った。起こった事はもう取り返しがつかない。
何より思い返すと無暗に絶叫し、転げまわり、泣き出し、最後には吐きそうになる。クラウとハーラには何度もやめろと言われており、最近は落ち着いてきている。絶叫と共に起き上がることは無くなったが、今でも悪夢は見ていた。それも二人には気付かれている。だがそれについて何かを言われたことはない。
「どうかしたか」
「ああ、いえ、なんでも……無いです。それより、今日は確か銅の腐敗というものについて教えてもらえるとか」
「そうだったな。とはいえ銅の腐敗については俺も詳しくは知らんぞ。鳥や同種の竜の伝聞だ。ランのやつは飯が旨くないといってここに来ることが多くてな」
「食事は重要ですね」
ゼルクは即座に頷いた。全く持って完全に同意だったからだ。
寒村では食事は楽しみの一つだ。それが最大の楽しみという人もいた。温かい飲み物一つであっても冬場はご馳走だった。たっぷりの野菜と少量の肉を牛乳とバターで煮込み、練った穀物を入れたシチューは、アリガの――母の得意料理だった。
「銅の腐敗は東の地、共和国の更に向こう側で起きている土地の異常だな。ランーーあちらの竜は大地病だなんて呼んでいる。土地と水は腐り、病の沼が各地に広がっている。当然、それに合わせた生物が無数に存在している。真っ当な植物は殆ど育たず枯果てている上、毒々しい色の蛞蝓やら毒虫やらがうようよいるらしい。育つ植物も大半が何らかの毒性を持っているのか、色が妙に紫だったり赤かったりするそうだ」
「……なぜそんなことに?」
「それは俺達にも解らん。だが女神が現れ、人が覇権をとってから三百年の間に銅の腐敗は徐々に広がっている。最初に確認できたのはいつ頃だったか、実のところ俺も知らんくらいだ。ランのやつが飯がまずくなったって泣きついてきたの百年くらい前だし、多分それより前から銅の腐敗は広がっていたんだろう」
はるか遠い東の地に広がる『銅の腐敗』はあらゆる命を脅かす危機であった。少なくとも聞く限りゼルクはそう感じていた。
だが不思議なことに、ウルシュの語りからは決してそれほどの脅威を感じない。彼も聞いただけだからなのだろうか。いや、それはないだろう。ゼルクは即座に否定した。ゼルク自身が感じ取れるような脅威を、彼が感じ取れないとも思えない。
「更に恐ろしいのがそこで誕生した新たな生命。三国ではミルミドンと称している」
「ミルミドン……」
「虫だそうだ。大きさはお前ほどもある。甲殻で全身を纏い、二足歩行する個体も珍しくない。その癖虫らしく足もたくさんあるもんだから倒れない、拘束してから攻撃もしてくる。甲殻は並大抵の弓、刃物ならば弾くか表面を滑り、全く傷にさえならないと聞いている。大質量で潰すか、火には弱いから松明で燃やすしかないようだ」
虫、それ自体はゼルクにとっては馴染がある。夏場には苦しめられることも多かった。
この森であってもそれは変わらなかった。段々と暖かくなってきた影響か、虫の種類も増え始めている。そろそろ虫への対策も必要だった。虫よけの薬草についてはクラウに聞いていたし、周りに許可を取って薬草の採取をしてもいいかもしれない。
「銅の腐敗の地に生きる生命体はどれも火に弱い。試しにランが燃やしたところ、生えている樹やら茸やら、そこに生きる蛞蝓やら毒虫やら面白いくらいに燃えたらしい。慌ててそこいらの腐った水で消したそうだが、ちょっと鱗が焦げていたな。思ったより大分炎上したんだろう、アレは」
「どこをどう燃やしたんですか……」
「さぁなぁ。まあそんなだからか、東の共和国は最前線で常に火を炊いていると聞いたぞ。最も、ミルミドンは下手に燃やすと表面だけ燃えて死ぬまで駆けまわるから大変だそうだが。そしてミルミドン最大の脅威は、死んだところから腐敗を進行させるという点だそうだ。従って奴らの死体は必ず燃やされる――とはいえ、ゼルク、お前は解るだろう。人間の手は非常に短い」
少しばかりウルシュは遠い目をした。その眼の先に何が映っているかはゼルクには解らなかった。
だが彼の言葉には納得しかなかった。自らの手の短さは、あの夜に、痛いほど痛感していた。やがてウルシュがふっと息を吐いて、少しばかり気楽な口調で呟いた。
「いや、人間ばかりではないか。短いのも、弱いのも」
「……竜と比べれば、誰とてとは思いますが」
「全くだ」
だはは、と笑う黒竜。ゼルクも僅かに苦笑いを浮かべる。
「共和国の前線は、東の地と接する土地全てを封鎖できているわけではない――いや、土地だけならば封鎖もできているかもしれんな。あの辺りの地形は封鎖しやすかったはずだが……今はどうなってるのやら」
「……ミルミドンの脅威は広がり続けている、ということですか」
「今は女神軍が何とかしている。だが時間の問題だな。そもそも共和国から帝国側への拡大を防いでいるだけであり、東側の方は手つかずだ。更に南に広がり――いや、その前に海が汚染され始めるだろうな。海に汚染が広がり、大陸の別の場所から汚染が始まればそこはどうするのやら。毒の花とて種子はある。川や海、風でそういった種子が飛べば、銅の腐敗は各地に広がっていくだろうな」
「……そうなったら……どうなるんでしょう」
「ん? そうだな。まあ今ある種は駆逐され……銅の腐敗に適応した新たな種が生存する。それだけの事だろう。ああ、後は食事が不味くなるな。ミルミドンは新たな種族の先駆けなのかもしれん。海に適応する種も何れは現れることだろうさ。知性が産まれるかどうかは、まあ運だな」
それだけ。
ウルシュはそれだけのことだと言い張った。銅の腐敗が広がれば、このエルフの住まう森でさえ只で済まない可能性があるというのに。
もしもそうなってしまった時、果たしてウルシュはどうするのだろう。
「もしも――」
「もしも、今ある種が全て滅ぼうとも俺に思うところはない」
「……」
「嘗ての大戦で俺たちが勝っていれば、人間は滅びていたかもな。実のところ、それに関して俺が思うことはないのだ。生物の生存競争とは須らくそういうものだからだ。生きる為に滅ぼす。あらゆる生物とはそうやって生きて来た。そのために様々な力をつける。戦う力、逃げる力、生きる力。それが当然だ」
ウルシュは力強く断定する。ゼルクは思わず言葉を失った。
どれほど言葉を交わそうと竜は竜である。人とは違う。以前にも感じた、種の違い。エルフと人でさえ死生観は余りに違った。
ゼルクは我慢できずに口を開く。生きる為に、滅ぼす。そんなことがまかり通るというのならば。
あの日村が燃えてしまったことさえそんな理由で片づけられてしまうというのならば。
「でも――奪われる側は――それで納得できません」
「当然だ。だから常に争いは起きる。生きる為に奪い、あるいは奪われる。やがて増え、地に満ちて、奪われたものよりも多くのものを与える。そういうものだ。奪うという行為は一過程に他ならず、結果はより多くを産む。そのために屍山血河作ることにも、ちゃんとした意味がある。生きるという行為に、勝利と敗北はない」
「……なら、俺たちが奪われたのも、その過程に過ぎないって」
「長く見るのならばそうなる。弱肉強食は世の理の中でもっとも単純な一つだ」
ゼルクは俯き、強く拳を握り締める。右の肘に斬られたあの日の熱さが蘇ってきた。
「――だが、ゼルク、勘違いをするなよ」
そんなゼルクの姿を見て、ウルシュは力強く語りかけた。
「言っておくがこれは弱い者たちが諦める理由にはならない。言っただろう、生きるという行為に勝利も敗北もない。相手が自分より優れていれば常に敗北する、というのならば、世に弱い者たちは何一つ生き残っていない。生存と勝敗は別物であり、自分が相手より劣っていることは決して敗北の理由にはならない」
「……?」
「ここから先は自分で考えるべきだな。だがお前は既にそれを知っている筈だぞ」
ウルシュに問われ、ゼルクはじっと考える。
炎に巻かれた日を思い出す。どうしようもない暴虐の火はゼルクからあらゆるものを奪った。
家族。仲の良い友人。村に住まわる全て。残ったものは僅かな日常の証と命だけ。
「……ぐっ……」
吐きそうになるのを堪え、思い出す。腕を一本失った痛み、火に巻かれ、別れたアエリア達。
零しそうな涙を拭い、歯を食いしばった。それでもゼルクは生き残っている。奪われていない。それは、なぜか。
「――逃げた」
ゼルクは吐き捨てるように呟いた。涙はとうとう零れて来た。拭いもせずに、ゼルクは顔を上げる。
「逃げたんです。何もかもを見捨てて。皆叫んでいた。アエリアは殴り飛ばされた、ネガトは蹴り飛ばされた。シジーも、テユも――助けられなかった! 俺が、俺だけ! ……逃げた、逃がされた、のに」
「おう」
「それでも、いいんですか。逃げてよかったんですか」
「おう」
ウルシュは只頷いた。ゼルクは体を折り、ボロボロと涙を溢れさせる。
暫くの間、ゼルクの嗚咽が辺りに響いた。ウルシュは何も言わなかった。ようやく顔を上げると、彼の眼は真っ赤に染まっており、涙を流れた跡もくっきりと残っていた。
「――逃げて、良かったんですか」
「自分の能力でどうしようもなけりゃあ、選択の一つだろう」
顔を上げたゼルクに、ウルシュは優しく笑った。
「結果として生き残るのならば、それが一番だ」
思えば最初はそうだった。子供たち全員で逃げようとしたのだ。だが結局は途中で失敗している。
ゼルクは眉を潜めた。ゼルクは腕を失い、他の子供たちも皆、結局は。
「でも、逃げ切れなかった」
「そりゃ相手がただ上手なだけだ。実戦経験も豊富な連中なんだろう。だがそれでもお前は逃げ、生き延びた。村の全員は奪われなかった、それが結果だ」
「……皆、恨んでいるかもしれない。俺は、俺は運よく生き延びて、誰一人助けられなかった、のに。こんな、こんな情けない奴が……」
「かもな。それをお前がどう背負うかは勝手だ。とはいえ俺に言わせればな、辛い過去だろうが、犯した罪だろうが、失った命だろうが愛情だろうが――そんなものより今の自分を大事にできる、悪いやつでもいいと思っているよ」
ウルシュをただ見上げるゼルク。その眼には憧憬の念が宿っていた。
ゼルクは紛れもない善人であった。他者を尊重し、まじめに生きて、自分よりも他人を優先した。それは子供たちと共に逃げたあの夜にも発揮されていた。進路を変えたネガトを追ってしまった。結果としてゼルクは腕を失った。
「俺を見ろ。何もせずただ友の腕をこうして守っているばかりだ。翼が生えてなかろうが、歩くことはできるというのにな。この腕をもって魔皇の力を継げる奴を探してもいいと思わんか? 俺はやらん。なぜだと思う? 嫌だし、死にそうだからだ! たったそれだけで俺はこうしてボケっと過ごしてる。何よりそんなことをしたら女神に狙われるリスクだってあるんだぞ」
「……」
「なんでもかんでもいい話に纏める必要などない。お前はあの夜村から逃げて生き延びた。だがそれは決して恥であるはずがない。生きることが恥なわけがあるか。適う筈の無い敵に立ち向かうのは勇気ではなく無謀と呼ぶ。もしも誰かがそれを勇気と呼ぶのならば、それを発揮する場面はしっかりと選ぶことだ。逃げは行動の一つ、恥ずべきものではないのだから」
「……――はい、恥知らずにも生き延びた黒竜、ウルシュさん」
「そういうことだ! それはそれとしてその呼び名は今後やったら額を小突く」
「ああ、実質殺す宣言ですね……」
ゼルクは少しだけ背筋を正した。恐らくウルシュは本当にやるだろう。二度と呼ばないほうがいい。
「思い出を」
軽く欠伸をしてからウルシュはぼんやりと呟いた。
「思い出を、糧にするか枷にするかは、お前次第だよ」
ゼルクはしっかりと頭を下げた。感謝と謝罪を込めたものだった。ウルシュはおう、と笑い再度の欠伸をした。今日の話はそれで終わりだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
永遠を生きる者にとって今この世界が夢かどうかなど不明です。であれば種の移ろいでさえ、彼等には風景の変化です。
長くを生きるという事は、多くを積み上げ、多くの別れを経験するという事。
ようやく銅の腐敗に触れました。




