旅路_01
ゼルクがとりあえずの回復をし、歩けるようになったのは更に三日後の事だった。
まだ悪夢に苛まれているし、突然のフラッシュバックはあるものの、とりあえず歩くのに支障はない。何もかもを失った少年にしては余りに早い切り替えではあったが、既に失うのも三度目だった。喪失の痛みは抱えていくしかないと学んでいた。
全身汚れていた為、とりあえずは河を目指して移動する。それほど遠くにはなかったが、ゼルクは放っておけば無理してでも歩き続ける性質なので休憩を意図的に多くとり、河に辿り着くのには半日かかった。
着替えさえ片手では難儀し、どうにか汚れた服を脱ぎ、河で洗う。冬の河の水は冷たい為、体は拭う程度にとどめておいた。その際に気が付いた。当然だが寝ている間であっても大小便は行っている。それを処理してくれていたのが誰だったか。ゼルクは急激に気恥ずかしさを覚えたものの、それ以上の感謝を二人に伝えた。クラウとハーラは驚いた顔をして、それから笑った。暫くぶりになにも気兼ねなく笑うことができた。
衣類を乾かし、食料と水、薬剤等を整え、出発の準備ができたのは更に二日後だった。
「そういえば、どこへ行くんです?」
「オーラから手紙を預かっている。森を抜けた先の北方にエルフの隠れ里があるらしい。落ち延びるのならばそこだな」
クラウの解答は明確だった。森を抜けるまでは彼が先導する。彼が懐から取り出した紙には、よく解らない文字が書かれていた。エルフ文字だから、まず読めないだろうとクラウが笑っていた。
「ただ、普通はたどり着ける場所ではない。隠れ里の前には迷いの森がある。どうにもドリュアードやフォンギアが住まわっているらしくてな。森が簡単……というわけでもないが、少しずつ形を変えるという話だ。この手紙の内容では」
「え……じゃあどうすれば」
「そこは考えがある。というか、オーラの手紙に書いてある。導き手の力があれば――いや、まずは森を抜けよう。ハーラ」
「はい」
ハーラが頷き、立ち上がる。ハーラの右足にも深い傷があったが、こちらはすっかり塞がっていた。ゼルクに使ったものと同じ薬剤を使い、きちんと治したらしい。とはいえ歩きづらそうにはしている。傷が深い為、完治までは時間がかかるのだった。
ゼルクくんほど大変じゃありませんよ。ハーラはそう笑った。傷の深さや大きさが問題ではないのだとゼルクは知った。
「ま、ゆっくり行こう。虫避けや獣避けには事欠かないからね、この森は。森を抜けるまでは安穏とした旅になるはずだ」
クラウの言葉は真実となった。森を抜けるまでの二十日程、虫に悩まされることはあっても、命を失うような危機は一つもなかった。
クラウがゼルクの知らない薬草を複数用いて獣避けや虫避けを造り、持たせていてくれたからだった。また、彼は弓と矢も持っている。弓は即席のものであり、樹の弦が使われていた。
矢筒に収まった矢は色々なことに使われている。矢じりは木製で反しも最低限しかついていない。それでも河に住まう魚を捕ることもあったし、小さな獣を狩ることもあった。だが食料の大半は木の実だった。火は扱いが難しい為、クラウとハーラがそれほど好んでいない。何より彼らは殆ど道具を持っていなかった。ほぼ着の身着のまま脱出したから無理もない。
それでもハーラは小さい刃物を一つと、もちろん帝国産の手帳とペンを持っていた。ペンは剣と打ち合った後だというのに、曲がりもしていない。あの日刃物を使っていれば間違いなく即座に殺されていましたね、と語り、ゼルクの気持ちを落ち込ませた。申し訳なさそうに謝っていたのを覚えている。
偶にそのペンを打金替わりに火を起こすことがある。それほどうまくいくわけでもない為、数日に一度の贅沢だった。頑丈な金属はそれだけで様々な使い道がある。
森を抜けるころには、ゼルクの顔色はだいぶ良くなっていた。最初の頃は半時間も歩けば息切れしていたが、最後には二時間もの間歩くことができていた。無論のこと彼らは刻計を持たない為、あくまで推測でしかない。だが大方は間違っていないと踏んでいた。
傷口も塞がったが、未だに夜毎に見る悪夢だけは変わっていなかった。悲鳴を上げて跳び起きることは無くなったものの、まだ時折吐き戻すことがある。水が自由に飲めるのが幸いだった。クラウがいなければその水さえ得ることはできなかっただろう。
森を抜けた先に広がる平野には、見たこともない光景が広がっていた。
遠くに見える大きな山々。大きな湖が光を反射しており、草食動物が集まっている。その近くには肉食獣らしきものもいた。ゼルクはこれまで熊や狼くらいしか見たことが無い。森に住まうものとは違う、見たことのない角を持つ動物や、見たことのあるコソリ鶏もいた。きょろきょろと辺りを見回し、駆け抜けていく。長い耳を持つ動物はどこかへと跳躍していく。人やエルフの姿は見えず、まさに獣や鳥の楽園だった。
今の自分たちの状況を忘れ、煌びやかな光景に目を奪われる。息を飲んでその風景に見入っていると、クラウが手紙を取り出して読み始めた。
「……ふむ。よし、ゼルク」
「え、ああ、何? クラウ兄さん」
「ここから先は君が先導してくれ」
「え……?」
思わず呆然と声を上げる。当然だった。見知らぬ土地で歩けるほど、ゼルクに経験はない。だが、クラウは構わず言葉を続ける。
「ゼルク、黒い糸は見えているか?」
「え――」
ゼルクは顔を上げた。空の奥に黒い糸がゆらゆらと揺れているのを見やる。
「うん、見えてる……けど」
ゼルクは首を傾げた。空に浮かぶ黒い糸は、村で見た時よりも太くなっているように思えた。
「それを辿っていくんだ。それだけで大丈夫。勿論帰る方向じゃない」
クラウの言葉は確信に満ちている。それだけで間違いないのだと告げていた。
ゼルクとしては当然半信半疑――どころではなかった。だがクラウもハーラも歩き出そうとしない。となればゼルクが先導するしかないのも事実であった。
何度か深呼吸を繰り返して、一歩を踏み出す。
それが彼にとって、あらゆる意味で最初の一歩であった。
草原を黒い糸に沿って歩んでいく。平和な光景が広がっているように見えたが、時折草原には獣の死体が転がっていた。既に腐り始めており、虫が汚らしく集っている。骨が打ち捨てられている場所もあった。
それを見ても嫌悪感は抱かない。寒村において死は身近なものであった。有体に言ってゼルクも肉をさばいたことはある。そのために育てた家畜もいた。別れはいつも辛いものになった。無条件の好意を寄せてくる相手は、屠るのが難しい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
二人のエルフと、新しい旅路へ。




