悪夢
「ゼルク」
母の呼びかける声に、ぼんやりと意識を取り戻す。
「かあさん」
うわごとのようになってしまった。どうやらまだ起きていないらしい。体が全く動かない。大丈夫、と体を揺すったのはアエリアだった。少しだけ疑問を抱く。
アエリアが家にいる。なぜだろうか。それほど起きるのが遅かっただろうか。ただ、頬が妙に赤く腫れている。ゼルクにーちゃんと呼ぶ声もあった。シジー、ネガト、テユ。村の男の子供、三人。ゼルク自身も好きな三人だった。
疑問と同時に安堵を感じた。ああ、皆、皆無事だったのだ。
無事。
何を言っているのやら。平和な日々でしかないというのに。
「ゼルク」
またしても母の声。呼ばれた方をぼんやり見ると、母は倒れていて首が断たれて転がされていた。よく見るとネガトの母親だった。
何が起きたか解らない。炎と悲鳴が全てだった。アエリアが殴り飛ばされる。死体が山と積まれていた。その中には子供たちのものもあった。見覚えのある顔しかない。
「ゼルク」
微かな声が聞こえた気がした。耳を塞ごうとしても手が足りない。いつの間にか手が切断されていて、血液が足元を汚していく。
倒れたアエリアの首が不気味に動き、普段の顔で言葉を告げる。声には様々な雑音と色々な人のものが混ざっていた。
「たすけて」
「うわぁああああああああああああ!?」
絶叫と共に目を覚ました。大量の涙とよだれが顔を汚していた。
体は全く動かない。けれども
「ゼルク! ゼルク、起きたか!」
「ああー……良かったぁ、本当によかったぁ……!」
クラウが肩をしっかりと掴んでいて、ハーラが安堵のため息を吐いていた。状況がさっぱりわからない。
少なくとも家ではないし、村ですらない。最近では見慣れてしまった集会所の屋根さえ見えなかった。その上妙に体が重たい。悪夢を見た気がした。何一つ内容など覚えていない。
荒くなった呼吸を整えながら立ち上がろうとして、失敗する。右腕をついたはずが抵抗が無かった。
思わず見やる。それを見た瞬間に思い出した。炎。死。あらゆるものを奪い去った一夜の悪夢。頭の中に炎の情景がフラッシュバックし、動機が途端に激しくな
る。当然思考が纏まらなくなった。
「あ――」
「ゼル――」
ゼルクの喉から絶叫が迸りかけた時、ハーラがそっと抱きしめる。豊かとはいえない胸元に抱え込まれ、強く抱き締められた。
悲鳴は抑え込まれたがその代わりに嗚咽が零れ、大量の涙がこぼれた。喉が嫌に掠れていることにようやく気が付いた。
気が付けば、日が傾き始めていた。
どうにもまた意識を失っていたらしかった。喉が酷く乾いていた。軽くむせこみながら、左手をついて起き上がる。
「――ああ、起きたか。ゼルク。調子はどうだ。大丈夫か?」
「……のど……が……」
「水だとも。ほら」
言いながら木の実の殻に溜められた水を渡される。飲むのに一切躊躇はしなかった。危機感以上に喉の渇きが深刻だった。
水は、不思議な香りと微かな甘味がした。美味しいが、只の水ではない為奇妙な気分になる。
「ああ、そこの樹が綺麗な水をためてくれるものでな。少しばかり匂いがするが、少なくともこれで腹を下すことはない。河の水よりは安全だよ」
クラウが落ち着いた声で教えてくれる。あっという間に水を飲み干してしまうと、まだ喉が渇いていることに気が付く。クラウは何も言わずに水を注いでくれた。木の実の殻はいくつかあり、どれにも水が溜められている。
二杯目も即座に飲み干す。飲み込んだところで息切れした。肩で息をしながらクラウとハーラを見やる。
「……あれ、からは……他の……」
「五日、経ちました」
ハーラが静かに教えてくれる。五日。そんなにも。
「そん、なに」
「……逃げられたのは、私たちだけだ。追撃はない。最初の頃はあっただろうが、河沿いを通らなかったからな。奴らにとっては不明の森でもあるし、無理に追いかけてはこなかったんだろう」
クラウが絶望的な事実を教えてくれた。だが聞かないわけにもいかない。
誰も。誰一人。殴り倒されたアエリア。泣き喚く子供たち。刺された人々。燃える村。何度も何度もフラッシュバックを起こし、たった今飲んだ水を吐き戻してしまう。当然器も放り出した。片手しか残っていない。二つの作業を同時には行えなくなっている。
クラウとハーラは只憐れんで寄り添ってくれていた。現状ではほかにやれることもない。胃液と水だけを吐き戻しながら、ゼルクは嗚咽を零していた。呼吸を落ち着かせるのに、また少しの時間がかかった。それだけ時間がかかるのが申し訳ない、とさえ思っていた。
「あ――ハー、ラ、さん。すいません、服を……」
「気にしないでください。洗えばいいですから。それに殆ど水ですし……」
「まあ、この数日殆ど何も食ってないからな。覚えているか。高熱に魘されて、少し意識を取り戻した折に水や果実を少し齧らせていたが」
「……全く」
全く身に覚えがない。右腕の傷は――見るたび頭痛と吐き気がするが――とりあえず血は止まっていた。まだ生々しい傷として残っている。
クラウが幾つか転がっている木の実の殻をもってきた。中には緑色の溶液が入っていた。殻の縁には布がかかっている。
「ゼルク。少し傷を手当てするぞ。……恐らくかなり痛いが、堪えてくれ」
「……はい」
ゼルクは小さく頷いて、横になった。座っていることさえ辛い。右腕をなんとなく見やる。クラウが縁にかかった布を水で濡らし、軽く絞った。
残った水で傷口を丁寧に洗う。それだけで痛みが走り、布につけた緑色の溶液を塗りたくると肉を無理やり抉ったのかと思うほどの激痛が走った。
「っぐあぁあ!」
「ルアリスの葉とハルミルの根をすり潰し、水で溶いたものだ。ハルミルは先ほどゼルクも飲んだ、水を蓄えてくれる樹でな――とても生活に役に立つ。少しばかり根を拝借した。痛いかもしれないが、傷口を塞ぐにはよく効く」
普段通り、森を歩く時のような口調で言いながら、のたうつゼルクをハーラと共に抑えつけながら薬剤を塗布していく。クラウは薬を塗布する際、全く普段と変わらないよう心掛けていた。外用薬は傷口に丁寧に塗布することができなければ効果が半減するとよく知っている。
やがて満遍なく薬剤を塗布し終えると、ゼルクは息も絶え絶えだった。森の深い木々でふさがれた空を見上げながら目を閉じると、素直に意識は消えて行った。またしても、炎の悪夢がゼルクを迎えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
どんな悪夢を見ても明日は来ます。
生きている限りは。




