悲鳴
遠くで犬の遠吠え微かに聞こえた気がした。ゼルクは聞きつけたその声に意識を取り戻す。
もう朝が来たのだろうか。微かに目を開いて確認する。集会所の小さな明り取りの窓からは、未だに月光が降り注ぎ、深い夜のままであった。
真っ暗な闇を照らすには心許ない光では、流石に集会所の全ては見えない。既に槍の月(二月)の三十一日。冬の気配は最大の寒波を見せ、寒さは一層の厳しさを増していた。雪が降らないのだけが幸いであった。
当然夜は寒く、子供たちは可能な限りの厚着を行い、布団に包まり皆で身を寄せ合って眠っている。床には各家から引っ張ってきた寝具のシーツが数枚重ねて敷かれていた。この寒波を鑑みれば皆で集まっているのは良案だった。この寒波さえ過ぎ去れば、春が来るという希望がある。
非日常であっても、数日も過ぎれば人は馴染む。それは子供たちであっても例外ではない。集会所での日々は当然のように過ぎ去り、別れの傷は徐々に塞がっていった。
微かに聞こえた犬の声もそれきり全く聞こえない。幻聴だろうか。似たようなことに悩まされ、夜中に起きたと聞いたこともある。牧羊犬も夜は流石に眠っていた。あるいは起きたのかもしれない。動物は規則正しい生活をしているが、この寒さだ。目覚めても不思議ではない。
ゼルクはぼんやりとした頭で暗い部屋の中を見渡す。アエリアの周りには女の子たちが寄り添っている。少年たちは少年だけで寄り集まっていた。少し離れた場所でハーラが眠っている。何があってもすぐに対処できるようにしていた。単純に集会所の広さが足りず、大人と呼べるのはハーラしかいない。
斧の月になるまであと二日。そうすれば家に帰って過ごすこととなる。ゼルクとしてはもう少しこのまま過ごしたいと考えていた。集会所での日々は、思ったよりも楽しく、何より物理的に暖かかった。春が来るまでは皆で過ごせないだろうか、と勘案している。大人たちは一周毎に集まっている様子だし、クラウに頼んで提案してもらってもいいかもしれない。
とにかく、眠りなおそう。まだまだ夜も深く、寒い。ゼルクは横になり、静寂はその瞬間に破られた。
「逃げ――てぇ!」
虚空に悲鳴のように迸った言葉に、即座にゼルクの体を起こした。続けて、絶叫。女性のものだった。同じ女性のものだったように思えた。犬が大きく吠える声が村中に響き渡る。
続けて聞こえたのは余りに呑気な謝罪の声だった。すまない、しくじった。その時には全員が体を起こしていた。まだ幼い子供の中には、起き抜けでぼんやりとしている。
「――ルク、ゼルクくん! 聞いて!」
混乱と恐怖で動けなかった体を、誰かにゆすられた。ハーラだった。暗い闇の中でもはっきりと解るほど、彼女の顔は真剣だった。
「あ、は、ーラさん……」
「ゼルク! しっかりしなって! ハーラさん、どうすればいいですか?」
「こういう時女の子は強いね、アエリアちゃん。よし、皆、すぐに逃げる準備をして。靴を履くだけで大丈夫。その後はすぐに出るから。でも、静かに。いいね?」
ハーラは真剣な顔で淡々と指示を出す。意図的にそうしていた。アエリアがゼルクの頭をひっぱたいて即座に現実に引き戻すのを見て、子供たちはどうにかなると判断する。
そしてこういう事態に備えてゼルク達も非難の訓練を行っていた。ただし訓練と違い、失敗すればどうなるか解らないという恐怖は子供たちを縛る。最悪の場合をハーラは想定していた。彼女は行商であった。荒事には慣れている。それに伴う余分な感情を削ぎ落とす術も知っている。
続けて響き渡る怒号と絶叫は、子供たちにも否応なしに現実と直面させるだけの力があった。誰かが何かに挑んだのだ。そしてどうなったかは絶叫が告げている。
「ゼルクにーちゃん……」
シジーが不安そうにゼルクの服の裾を掴んだ。時が惜しい。今は一刻、一分、一秒を争う。混乱している時間などない。
「……悪い。シジー、聞いたな? すぐに行動してくれ。テユ、ネガトーー」
「ね、ねぇにーちゃん、ネムは……」
「――」
ゼルクは一瞬言葉に詰まった。ネガトにはまだ幼い妹がいた。だが幸いにしてか、その問いに答える猶予はゼルクに与えられなかった。
小さな採光窓から紅蓮の光が入ってくる。火が放たれていた。逡巡している暇はない。
「――後、いや、大丈夫! ヴェンスさんとリーナさんは壮健だ」
ネガトの両親の名を挙げ、肩を掴む。同じように弟がいるクウナについてはアエリアが説得している。準備はすぐに整えられた。持ち出すものなど何一つない。
ハーラが扉を開き、外へと飛び出る。既に村の火は広がりつつあった。河が傍にある為、恐れることはあっても打てる手はある。だが人為的な火災ともなれば話は別だ。複数個所から火が出ている。
「……思った以上に」
手際がいい、という言葉をハーラは飲み込んだ。臍を噛む。察知する手段を仕掛けていたはずだが、全く機能していない。
やはり、手馴れている。ハーラはそれ以上思い悩まなかった。現状に対してのみ自分の理性を徹底的に働かせた。
「森へ!」
ハーラの一言と共に、ゼルクが男子を、アエリアが女子を引き連れて駆け出す。
訓練の際は『何が聞こえようと、あるいは何が起きようと駆け抜けること』と教えられていた。だが現実にそれを守れるような子供は、ゼルクとアエリアの2人だけだった。二人は大人たちを信じている。何よりゼルクは死と2度、対峙していた。現実感がなくなろうとも走らなければならないという状況だと解っていた。アエリアはそんなゼルクの背中だけを見ていた。他を見れば足が止まると解っていた。
だが幼い子供たちはそうではない。普段は頼れる村の大人たちの絶叫は、彼らの足を止めるに十分だった。シジーとネガトが不安から後ろを振り向く。
「ネム!」
ネガトが叫んだ。ゼルクは思わずそちらを見た。リーナがその手に子供を抱えて走ってきていた。
その肩に矢が突き刺さり、倒れる。歯を食いしばってリーナは体を反転させ、仰向けに倒れた。娘を守る母親の必死さだった。
「おかあさん! ネム!」
「ネガト! ばーークソ!」
ネガトが駆け出す。倒れた母親と妹に向かって。少年にとっては当然の行動だった。
ゼルクは歯を食いしばって、それを追いかけた。追いかけてしまった。ハーラの悲痛な叫びが響き渡った。
「ゼルクくん!」
「シジー、アエリア! まっすぐに走れ!」
ゼルクは全力で叫びながらネガトを追いかける。
悲劇は目前で繰り広げられた。リーナを追いかけて来た夜盗は容赦無くその首に剣を突き立てた。彼女が上げようとした絶叫は一切封じられた。痙攣し、ごろんと力なく倒れる。
「あ、え――うわぁああああああああああ!」
ネガトが叫びながらより一層力強く駆け出した。何が起きたかは解っていない。けれどいつか死んだ羊を思い出していた。力なく倒れ、動かなくなる。
少年の目には直後に訪れるであろう悲劇も見えていた。幸いにしてか現実にはならなかった。夜盗の目にも迷いはあった。
だが次の行動に迷いはない。夜盗はやって来たネガトに向かって蹴りを繰り出し、その体を吹き飛ばした。腹に綺麗に入っていた。色々なものを吐き出しながら、ネガトは転がった。
「ネガト!」
その体を掴み、引き起こす。苦しそうにむせるネガトを見ながら、夜盗が近づいてくる。どうにか引きずって離れようとした。ネガトが吐くものには赤いものが混じっていた。
「バカ、寝かせろ。そんなに強く蹴っちゃいないが、内臓が傷ついてるかもしれん。起こすより横にした方がいい」
低い声は状況にそぐわない。紛れもなくネガトを案じている。は、とゼルクが信じられない思いで夜盗を見上げる。お前たち。お前たちのせいで。
そして彼はゼルク達から視線を外し、屍の傍らで泣き声を上げるネムを拾い上げた。何事かを呟いているようだったが、聞こえない。
泣き声が一層大きくなる。
リーナが切り殺され、ネガトは蹴り飛ばされ、今まさにネムも。
ゼルクの視界は怒りと恐怖で真っ赤に染まり、ネガトを寝かせて勢いよく飛び出した。
瞬間、音が消えた。
世界が止まったと感じるほどの衝撃を受ける。
「がっ――!?」
「あっぶねぇ! 切るところだっただろ!」
脳内には耳鳴りの音がやかましく響き渡り、重たい衝撃が顔面に広がる。一瞬だけ意識が遠のき、地面に転がったことさえ気が付いていない。更に地面に頭を打ち付け、口内に生暖かいものが広がる感覚があった。
一切の思考能力と人間性を奪われたまま空を見上げる。火に照らされながら、夜の空に浮かぶ銀の月は細く、糸の如くに絞られていた。その中に確かに見える黒い糸。何かに苦しむように捩れている。
何一つ解らないまま続けて聞こえた絶叫は、逃げたアエリアたちのものだった。
「っ――あ――な……?」
意味もなく体を起こす。どこかでまた悲鳴が響いた気がした。ゼルクはそれをぼんやりと聞いていた。
夜襲を仕掛けてきた者たちの手腕は水際立っていた。既に回り込まれている。いや、最初から別動隊が詰めていたのかもしれない。
火は益々燃え盛り、夜の闇を煌々と照らしている。全ての事柄がゼルクの行動を阻害していた。
呼吸が浅くなり、全く考えが纏まらない。何をしていたかも一瞬忘れそうになる。ただ炎と頬の熱さ、口内に広がる生温い鉄錆の味だけが現実だった。その現実を認識した瞬間、記憶と意識が一気に回復する。
「とりあえずお前らはおとなしく――ぅぉっと!?」
ゼルクの頭上で何かが振るわれ、近づいてきていた夜盗を退かせる。
「ゼルク、無事か!?」
落ち着いた声だった。勿論、聞き覚えがある。見上げると、そこにオーラがいた。その他にも大人たちがそれぞれ農具をもっていた。思わず涙ぐみそうになる。救いが来たのだと無意味に思った。
大人たちの数は少ない。傷を負っている者もいる。他の者たちがどうなったか、ゼルクには想像する必要さえなかった。少なくとも実例は目の前に転がっていた。
「耳長ァ……!」
「――子を殺すつもりはないのだな。そこは誉めてやろう」
「そりゃあそうだろ、人間の未来は奪っていいことねぇよ」
気軽な声で応じながら、夜盗は泣きじゃくる子供を火の届かぬ場所にそっと地面に置いた。少なくとも傷つけようという意図は見えなかった。
「お、オーラじい、さん。あっち、あっちにも」
「おう。ゼルクはすぐに行け。そっちにゃクラウも行ってる」
「ネガト、が」
「任せろ」
オーラは笑った。混乱は収まらない。だがとにかく行かなければならない。理由は解らなかった。けれども、そういえば、逃げろと言われていたのを思い出した。
走る足に力がこもる。そうだ。何もできないのならば、逃げなければならない。
炎の熱さ以上に頬に熱さを感じている。剣で思い切り殴られたということをようやく認識していた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
どこまで行けば救われるのかをよく考えます。




