母
ゼルクがようやく正気に戻った頃には、夜も更けていた。
家には誰もいなかった。アリガが声をかけてくれたのはぼんやりと覚えていたので、なんとはなく居間に出る。暗い部屋ではあったが、食事の用意はあった。冷えた空気の中、硬いパンと冷えたスープを啜る。肉が薄く切られて置かれており、それも食べたが、味など解るはずもなかった。
だがどんな状況で荒れ腹は減る。そんな事実に理由もなく苛立たしさを感じて、ゼルクは強くテーブルを叩いた。自分の手が痛いだけだった。
下唇を噛みしめながら自分の頭を抱えて、テーブルに突っ伏す。意味もなく悲しさが去来した。父が死んだときもこんな悲しさだったと思い出す。当然だがこの村に住まう大人たちの誰もが、既に父より長く付き合っている。
扉が控えめに叩かれた。二回、ゆっくりと。
緩慢な動きでその扉を見る。重たい体を引きずって扉を開くと、そこにいたのはアエリアだった。
「――あ、ゼルク」
「……ん、おう」
お互いに緩慢な動作で挨拶をして、それからなんとはなしに黙り込んだ。
暫くして口を開いたのは、アエリアの方だった。
「寝てた?」
「……さっきまで。母さんは……どっか、いったな」
「……多分、集会所。ウチの家族も、そこに」
話す内容はゼルクたちは知っている。村長の死、そしてファウラ一家の失踪。
「……あの後、私ミールの家に行ってさ」
アエリアはぼんやりと語りだす。おう。ゼルクも何の気なしに応じた。お互いに受け入れられない現実をどうにかすり合わせ用としている。
「本当に……誰も、いなくってさ……」
「――おう」
「……しかも本が散らばってて……『雷鳴紀』とか『女神英雄伝』とか、床に転がってた。他の本は綺麗に収められてたのにね……読むつもりだったのかな」
言いながらアエリアは、まるでその場に戻ったかのように視線を遠くへと向ける。
「『雷鳴紀』のほうは……表紙が少しだけ歪んでた。多分、誰かが慌てて落としたんだと思う。ページの間にミールがよく使ってた、黄色い布のしおりが挟まったままで……」
彼女の声はだんだんと震え始めていた。唇を噛みしめて、服の裾をきゅっと握る。
「他のものは全部、いつも通りだったの。布団も畳まれてたし、椅子も机もきちんとしてて……まるで、本当に昨日のまま時間が止まってるみたいだった」
沈黙。
ただ、火の灯らぬ家の空気だけがそこに残っているような、そんな情景がゼルクの中にも浮かんでいた。
「なんでこんな……急に……」
「……わかんねぇ」
「ねぇ」
ゼルクの解答を待たず、アエリアは静かに俯きながら言葉を紡ぐ。俯いていた顔を上げると、泣きそうな顔をしていた。服の裾をぎゅっと握っており、微かに震えている。
彼女のそんな顔も、そんな態度も滅多に見ない。急激に起きた複数の変化に戸惑っているだけではない。心底から不安なのだ。普段から快活に笑う彼女の泣きそうな顔を見ていると、ゼルクの胸も苦しくなった。
「ゼルクはいなくならない?」
「いなくなるか。俺は、この村にいるよ」
即答だった。それが自然だと考えていた。
ゼルクはこの村で産まれ、この村で育った。当然、この村で死んでいくと考えている。
アエリアはその回答を聞いて、ぎこちなく笑った。ゼルクはほっとし、自然と笑う。
それから少し会話が無くなった。お互いなんとなく顔を合わせているのが気恥ずかしくなり、どちらかともなく視線を逸らす。会話の糸口を探し、ゼルクはしどろもどろになりながら口を開いた。
「あ、なぁ、アエリア」
「う、うん、何?」
「えーっと……ああ、そうだ。……飴、買ってあるんだけど、一個食べるか?」
会話の糸口は何でもよかったが、結局出てきた話題は昨日買った瓶入りの金平糖だった。安くはない買い物だったが、瓶も綺麗である為結局購入していた。片づけが終わり次第子供たちに配るつもりだったのだが、その予定は今のところ流れている。
部屋に戻り、ベッドのそばに置いた瓶をもってすぐに戻ってくる。
コルクの蓋を開き、中から金平糖を一つ取り出し、アエリアに渡す。わぁ、とアエリアは感嘆に口を開く。
「凄い、綺麗な飴だね。金平糖だっけ」
「おう。こういう形を作るのって大変らしい」
ゼルクの知る限りの話だが、金平糖はその形を作るのがまず大変なのだと聞く。瓶一つでも高価な甘味であった。
ゼルクが持つ瓶の中にも15個ほど、それも然程大きなものは入っていない。それであっても一ギナ以上の値段がする。
「ふぅん、どうやって作るの?」
「知らねぇ。……でも基本飴と一緒だよな? 砂糖あれば飴は作れるし、金平糖作れたら皆喜ぶよな」
「あ、いいね! ふふふ、砂糖と水をゆっくり煮詰めて作ったっけ。皆で作って……あれは楽しかったよね」
アエリアが少しだけ悲しそうに笑う。その思い出の中にはミールとマイトも共にいた。
砂糖も高級品ではあったが、決して買えないものでもない。少なくとも飴よりは安かった。とはいえ量がある為、総額は飴よりも遥かに高額となる。それでも偶にラドの行商隊が持ってきてくれるので、その時は子供たちでお金を出し合って購入するのだ。
そうして買った砂糖は、当然子供たちの間で消費する。飴や砂糖水を作ったりと暫くは甘いものに困らない。特に砂糖水は薬草や香草で様々な香りづけができる為、誰にも人気な飲み物だった。だが保存なども大人は手伝ってくれない(あるいは子供が自分のものだということで手伝わせない。)為、虫や湿気でだめになることもあった。そういうのも学びであった。
「……な、また作るか。うまくいくなら金平糖だってさ。ミールとマイトの分も、俺らで元気にしてやらないと」
「そう……だね」
「それに……」
それに。そこで口を噤む。オットーが死んだ。その事実を口に出せずにいた。
アエリアが不思議そうに首を傾げる。なんでもない、とゼルクは笑った。うまく笑えている自信はなかった。
「あら、アエリアちゃん?」
ふと、声がかかった。二人で声の方向を見やる。月下、帰宅してきたのは当然アリガだった。
「アリガさん!」
「母さん。お帰り」
「ただいま、ゼルク」
2人の出迎えの声に、アリガは朗らかに笑う。
助かった。素直にゼルクはそう思った。嫌な空気を余り味わいたいとは思っていない。
「アエリアちゃん、もうフィラーさんも帰ってるわ。夜も遅いし、今日は帰っておきなさい」
「あ、はーい。じゃあゼルク、明日は片付けね」
「おう、おやすみ」
お休み。アエリアはいつもよりも少しだけ硬い笑顔でそう告げて、家路をたどっていく。
その姿が見えなくなる前に、ゼルクとアリガは家へと戻った。僅かにされた食事の跡を見て、アリガは安心したように嘆息する。
「よかったわ。ちゃんと食べてくれたのね」
「少しだけどさ。あ、全部食べるよ。母さんも……」
「私、集会に行く前に食べたから。それより、ゼルク」
ゼルクが何事か尋ねる前に、アリガはゼルクを抱きしめた。背丈はもうほとんど変わらないが、それでも母の抱擁には抗いがたい何かがある。
「辛かったわね」
「……」
アリガは静かにそう言って、ゼルクの頭を撫でた。普段ならば反駁したであろうゼルクは、その一言だけで目を潤ませ、母を抱き返す。
母は何も言わずに抱きしめてくれた。それだけでありがたかった。何が起きたか全部把握している以上、アリガにも同じ重さが圧し掛かっている筈だった。ゼルクはそこまで考えられなかった。彼はまだ十四歳の少年に過ぎず、アリガはゼルクの母親だった。
「今日は一緒に寝る?」
暫くしてアリガがそう提案してくる。声には微かに笑いが含まれていた。だが不快ではない。決してからかっているわけではないからだ。
ゼルクは暫し沈黙したのちに、アリガから離れる。母の服には涙の染みがついていた。自分が子供であるという事を否定できる要素はなかった。それでも返答は決まっている。
「……いいよ。一人で寝れる」
「そう。大きくなったわね、ゼルク」
アリガは優しく微笑む。それからまたゼルクの頭を撫でて、普段と変わらない口調で語りだす。
「色々決まったことがあったから、明日話すわ。今日はもう寝ちゃいなさい。ああ、食事をしてからでいいからね」
「うん、解った」
アリガの言葉に、ゼルクは素直に頷いた。母は笑って部屋の奥へと去っていく。
ゼルクは食卓に着いた。月明かりの下、冷え切った肉やパンを食べる。冷たくはあったが、先ほどよりも味はした。なぜかを考えようとすると目頭が熱くなりそうになり、食事に集中する。硬いパンは幸いにして、集中せねば食べられないほどだった。
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