40 岐路
年が明けて数日後、四条の別邸を訪れた楓を周防が出迎えた。
「まあ、姫様。お一人で?」
「飛燕も来ているわよ。表で中将様とお話しているの。それより周防、あの方の具合はいかが?」
「心配いりませんわ。元気にされていますよ」
周防に案内されて屋敷の奥へ進む。たどり着いた部屋の主人は、まるで訪れるのを待っていたように、楓が入ってくるのを平伏して迎えた。
いつもの白の浄衣ではなく、紅梅の襲が黒髪に美しく映える。
この方は赤色がよく似合う。
そう心の中で思いながら周防が用意する円座に座り、楓は彼女に声を掛けた。
「柘榴様、お顔をあげてください」
柘榴は一瞬ためらうように頭を揺らし、そして顔を上げる。その表情はとても穏やかなものだった。
あの夜、朱雀門の下で気を失っていた彼女を、楓達は斉彬に託した。式神しかいない三条の屋敷よりも、こちらの方が良いだろうと皆の意見が一致したのだ。
目を覚まして柘榴は訳がわからず戸惑ったと思うが、周防達が上手く話をしてくれていたようだった。
「楓様、この度はとても申し訳ない事をいたしました。陰陽頭にも、左近の中将様にも。私を止めてくださり、そして救っていただいたと聞いています」
感謝の言葉に楓は少しほっとする。
そして、彼女に必ず言わなければと思っていた言葉を伝えた。
「貴女を助けたのは、貴女の父君です。柘榴様はずっと、山楝蛇となった保光様に護られていたのですね」
「その話を、左近の中将様から聞きました。父のことを……、私は巫だというのに気付きもしなかった」
そう言って、柘榴は後悔を堪えるように目を伏せる。
楓はそっとその様子を見つめた。
神となっても父が見守ってくれていたことに喜びを感じているのか、それとも神の姿で彷徨う父を哀れに思っているのか。
きっと、後者の方が強いだろう、と楓は柘榴の胸中を推し量る。
「父は仇を討ってほしいなどと思っていなかったのに、私は命じられるがまま——」
「保光様は私達に、本当に罰せられるべき方を教えてくださいました」
神祇伯は巧妙に彼女の影に隠れていた。山楝蛇が姿を見せなければ、きっと自分達は今でも騙されたままだっただろう。
しかし、楓の言葉に柘榴は沈痛な表情で首を横に振った。
「止められなかった私も同罪です。私は知っていたのです。伯が祭祀に疑念を抱いていた事を。彼は何度か私に語っていました。どれだけ祈りを捧げても、神は報いることはないと」
「それは、彼の北の方様のことでしょうか」
利憲から神祇伯の話を聞いていた楓は、確認するように柘榴に尋ねる。彼女は目を伏せたまま、小さく頷いた。
「はい。子の産めぬ女は立場が弱いのです。伯は気にしないようにと言っていたそうなのですが、結局、心を病んで亡くなったと聞いています」
神はどうして妻を救ってくれなかったのか。彼はそのことをずっと考え続けてきたのだろう。
楓がもしそう問われても、ともに悲しむことしか出来ない。手離したくないものを奪われる事もある。しかし、それは神の力の及ばなかったこと。恨むより、前を向くしかない。
——愛が身を滅ぼす。
少副を見た利憲が呟いたように、神祇伯もまた、深い愛に目を塞がれてしまったのだろう。神を恨まずにはいられないくらいに。
ほんの少しの間、二人の間を沈黙が流れた。
チチチ、と可愛らしい鳴き声に楓が庭へ目をやると、二羽の雀の遊ぶ姿が見える。その横顔に、柘榴は静かに尋ねた。
「伯は、どうなるのですか」
「あの方は、朝廷の重要な政である祭祀を壊そうとしました。今は屋敷で蟄居されていますが、おそらく配流に処せられるだろうと聞いています」
「私も、伯と共に流罪にしてください」
「柘榴様、神祇伯様は貴女のことを初めから利用するつもりで……」
「それでも、私は伯のことを憎くは思えないのです。彼は両親を失った私を、偽りであろうと愛情をもって育ててくれました。彼の屋敷で過ごした時間は、私にとっては救いでした」
顔を上げ、前を見つめる目は強い光を湛えていた。彼女は自らを捨てた養父を支える為に、厳しい流離の旅について行こうとしている。
「神社を離れ、野に下って貴女は何を?」
「何でもできます。誰かのために働くのに、肩書きなど必要ありません。市井の巫女のようなこともやっていたと、内裏でお話しましたでしょう?」
楓は驚いて目を見開く。
すると、柘榴はふふと笑みを浮かべた。
「どこかでお会いした気がしていたのです。まさか女人が陰陽生になっているとは思いませんでした」
「どうして気付いたのです?」
「貴女の気配は特殊です。巫とはまた違う、不思議な神気。はじめは気のせいかと思いました。でも、こんな気配を持っている人は、そうそういませんから」
女神の存在に柘榴は気付いている。
そういえば、以前利憲にも見抜かれたことを思い出し、つくづく賀茂の一族は凄いのだなと感心する。
「さすがです……」
驚く楓の様子がおかしかったのか、柘榴は『まあ』と言って袖で口元を隠した。
「こんなに神気が漏れ出ていますのに。でも、視た感じでは貴女の中にいる神は眠っているのでしょうか。玉依姫が人であるために」
「私には女神の意思はわかりません」
「ふふ、そうですね。——でも、神も人も、結局心は同じなのかもしれません。貴女は女神そのもののような気がします」
そう言うと、柘榴は再び深々と頭を下げた。
「貴女は私を見捨てませんでした。貴女のおかげで、私はまた神を信じることができそうです」
「そんな……」
「陰陽頭にも謝りたいです。酷いことを言ってしまいましたので」
「利憲様に?」
「はい。私は従兄の事が羨ましかったのです。男なら陰陽師になれる。それに彼はなんでも出来て、なんでも知っていて。私よりずっと呪力も強くて。私が手に入れることのできない全てを、彼は持っていました」
どこか懐かしむような声音に、楓は少しだけ複雑な気持ちを覚える。血縁だけではない思慕が隠れているのを感じたからだ。
柘榴自身、そのことには気付いていないのかも知れないが。
「いつの間にか私は彼に憧れを抱いていました。彼のようになりたかった。でも、もう良いのです。陰陽師以外にも、私の望む道は幾つもあるのですから」
雪が溶けるように彼女の中から迷いが消え、自らの境遇を憐んでいたあの夜の姿はもうない。進むべき道を自ら選びとった彼女は、その左目の星を輝かせて笑った。
「楓様、陰陽頭をよろしくお願いします。賀茂家の人間は不幸を背負いがちなので」
楓が柘榴の部屋を出ると、そこには飛燕と斉彬がそろって立っていた。
いつの間に、と楓は声を掛けようとする。しかし、二人は何やらやいやいと言い争いをしているようだった。
「やっぱりあの女、主のことを——! ほら、中将様、出番でございますよ。当世きっての色好みの名に相応しく、あの女を誑かしてくださいませ!」
「飛燕、そんな無茶を言ってはいけないよ。利憲に惚れている女性を誘惑したって、そうそうなびくわけないじゃないか」
「まあ、中将様らしくない」
「あちこち手を出すなって言ったのは飛燕じゃないか」
ぐいぐい迫る飛燕を斉彬が押し返している。
それを見た楓は一瞬目を丸くして、それからくすくす笑いながら二人の横を通り抜けて立ち去った。




