39 裏切り
斉彬に手を引かれ利憲を追った楓の耳に、ふと聞き慣れた声が微かに届く。立ち止まった斉彬が、『しい』と人差し指を唇に当てて塀に隠れた。楓もそれに倣う。
鼓動がやけに大きく鳴っている。角を覗き込んだすぐそこに、探していた二人の姿が見えていた。
ピリピリとした空気が流れているのを感じながら耳を澄ますと、語り合う声が聞こえてくる。
「貴方は祭祀を潰して神を試そうと——」
「そうだ。宋の道士の使う方術には、君達の式神のように紙人を兵とする法や、鬼を操る法もあるのだよ」
「いつから、そのようなものを」
「妻が死んで以来、私は長らくそれらを研究してきた。柘榴に教えたのは、そのうちのほんの少し」
目の前にいる神祇伯は、神祇官の長の姿を脱ぎ捨てていた。楓が以前に見たあの柔らかな物腰の彼は消え、代わりに利憲に向けて冷笑を浮かべている。
しかし、それは利憲ではなく、自らを嘲笑っているかのようだった。
「哀れなものだ。崇高なる大神に祈りを捧げるより、そんな邪術の方が私の心を助けてくれた。保明殿への羨望も、この蝶をつくり出せた時には小さなものになったよ」
神祇伯の袖から取り出された数枚の式符が、瞬く間に黒い胡蝶へと変じた。そして、ヒラヒラと彼の周囲を舞うように飛ぶ。
楓は目を見開いた。思わず隣を見上げると、斉彬は太刀に手を掛け飛び出す機会をうかがっている。
彼の視線の先にいる利憲は、神祇伯の語る言葉をただひたすら受け止めているように見えた。
「貴方は早く神祇官を去るべきでした」
「ああ、そうだね。だが、私の氏がそれを許さなかった。代わりに、私の友人を解放してあげたよ。陰陽寮から」
利憲の顔色がさっと変わる。
それを眺めた神祇伯は、ニタリと口元を歪めた。
「私が最初に反魂木を使った相手は、実は保明殿だったのだよ。兄君の姿がちらついて眠れぬというのでね。この植物は薬のようなもの。だが量を誤ったり使い続けると、良くないものが見えるようになるようだ。保明殿は眠りにつこうとする度に、鬼神に姿を変えた君が見えていたらしい」
「伯、貴方は……」
ギリ、と利憲が奥歯を噛み締める。
このやり取りに、楓は思わず自身の胸を押さえた。まるでこれは呪詛ではないか。
(なんて、酷いことを)
父に殺されかけた、そう告げた彼の心の傷はどれだけ深いものなのか。過去の境遇を自分と重ねた彼の痛みを、楓は知っている。それを引き起こしたのが祖父とも慕う神祇伯の手だったなどと、今更聞きたくもないだろう。
斉彬も同じ事を感じているに違いない。太刀を握りしめた彼の手は、白く色を失って震えている。
全てを伝え終えた神祇伯は、飛ぶ胡蝶に囲まれて満足そうな表情をした。
「伯と呼ばれるのも、もう終わりだ。最後に本当の召魂で、君を保明殿に逢わせてあげよう」
彼はそう言って手を挙げる。
無数の蝶がはたはたと微かな羽音とともに広がった。辺りをのみこむような黒い群れが、つむじ風のように円を描きながら渦を巻く。
そして、蝶が二人を覆い尽くすと、次の瞬間、弾けるように白い煙が噴き出した。
利憲が袖で口元を覆う。
彼が睨む相手は、煙の中で笑っていた。
(反魂香!)
隠れている楓達のところまで、白煙がじわじわと流れ充満してゆく。
楓はムッとするような香の匂いに思わず顔をしかめた。膝から下が濃い霧に覆われて、まるで川の中にいるかのように見えなくなる。
立ちのぼってくる煙を吸いこんだ楓は、くらりと眩暈を感じた。周囲の景色がぐにゃりとゆがんで見える。
白い霧のような煙の中で、神祇伯は低く呪を唱えた。
すると神祇伯の姿が溶けるように消え、代わりに壮年の男の姿が浮かび上がる。その人物の顔は、何処か利憲によく似ていた。
「父上——」
掠れた声が聞こえた。
さすがの彼でも、この濃さの香に包まれては幻にのまれてしまう。
「利憲様」
声をあげる楓の目の前で、幻の男がその口を開いた。
『人の中に入れると思うな……、そなたは人間ではなく化け物だ』
無言で飛び出した斉彬が、煙に包まれた男に向けて太刀を振るう。
数枚の斬られた式符が地面にフワリと落ちた。
「利憲様、そちら側へ行ってはなりません!」
楓の叫びに呼応するように、ざあっと強い風が辺りを吹き抜ける。
透き通る葉が辺りに散った。
光をのせた風が霧を吹き払ってゆく。
清らかな風は、そして優しいそよ風にかわり、胡蝶も煙の香りも残さず消し去った。
全てを祓ったその神力は、男の目の前でまだ淡い光となって瞬いている。
斉彬に太刀を突きつけられ楓を見つめる男は、もう神祇伯の姿に戻っていた。
「そなたの中にはナニがいるのだ——?」
女神の祓を目の当たりにして、彼は喘いだ。
その問いに、楓は答えるつもりはない。自分の勝手な思いで人を傷つける彼を、楓は許そうとは思わなかった。
冷たく横を向く楓に、神祇伯はなおも縋りつく。
「頼む、教えてくれ。どんな巫でも、真実の神を降ろす者はいなかった。しかし、そなたの力は違う。神は一体何処にいるのだ?」
楓は必死な様子の彼に、ただ思う答えを教えた。
「神は人の中にいます。そして、ともにこの世を見ているのです」
「そなたは神の声が聞けるのか」
「いいえ。感じるだけです」
神はそこにいる。
しかし、それに気づくことが出来ないだけだ。
ようやく答えを得たというふうに、神祇伯は深く息を吐く。
「……神が信じられなくなったのは、人を愛することをやめたせいか」
楓の目には、彼は憔悴したただの老人のように見えた。
斉彬が太刀を抜いたまま、重々しく告げる。
「神祇伯殿、今回の件は看過出来ませぬ」
「ああ、わかっているよ」
頷いた彼は、斉彬にうながされて歩きだした。
「利憲様、大丈夫ですか!」
彼等と入れ替わるように、楓は膝をつく利憲のそばに急いで走り寄る。
俯いたまま動けない様子の彼の肩を抱き、顔を覗き込んだ。楓の目の前で、白い頬の上を透明な水滴がひとつ流れ落ちる。
「利憲様……」
「大丈夫だ。おまえがいる限り、私は狂いはしない」
心配いらぬ、と言って利憲は立ち上がった。そして、斉彬に連れられてゆくかつての友人を見送る。
神祇伯の背中を見るその銀の瞳が、わずかに赤味を帯びているように楓には見えた。




