37 大祓
太陽が天中を過ぎる頃、解除の儀式を終え大極殿を出た高官達の行列が朱雀門へと到着する。
それを迎えながら、神祇伯は朱雀門を見上げた。
昨夜、都を突然襲った嵐。
天を舞う龍のような雲を見たという者もいたが、その後まもなく風は止み静かな空に戻った事で、大袈裟に話が広がることもなかった。
今は嘘だったかのように、空は澄んだ青色をしている。
晦日の大祓は予定通りに進行していた。
門を守る左右の近衛府の中央に立つ神祇大副の下へ、居並ぶ百官より集められた人形・馬形の入った籠が置かれる。忌部が祓串を振り祝詞をあげると、周囲に切幣が撒かれた。
真っ白な切麻が宙を舞い、沈黙の中で地面へと落ちてゆく。
そして穢れを封じた籠が運ばれて行き、しばらく後に清浄な水の流れに流されたと報告がなされた。
神祇伯は頷くと、無事に儀式が終了した事をその場に告げる。
そう、『何事もなく』終わってしまった。
それは彼の手札が、完全に敗れた事を意味している。
昨夜、都を駆け抜けた激しい嵐は、おそらく柘榴が呼び寄せたもの。
あの不自然な風は神の怒りだ。
彼女には宋の書物にある呪符を渡していた。呪力の高い者があの札で式神を呼べば、間違いなく強い鬼神が呼び寄せられる。
そして、祓われて消えたのだろう。
彼女の父親同様に。
(やはり無理があったか……)
この大祓の儀式を破壊する。
それこそが彼の目的だった。
この為に、彼女を遠く筑前から呼び寄せたというのに。
帝が左近の中将に、少副を見舞うよう命じたと聞いた時から懸念はしていた。
脅しをかけて黙らせようとしたが、中将に幻術が効かないとは思わなかった。中将は陰陽頭との交流が深い。かえって藪蛇になったのが痛かった。
陰陽頭はまだ若いながら、かなり頭が回る。
彼の父親は息子の高い呪力を認めていたが、それ以上に彼は恐ろしいくらいに才知に秀でている。
陰陽頭の追及をかわせたのは、彼が自分に絶対の信頼をおいていたからだ。そうでなければ見抜かれていただろう。
(保明殿は無駄に息子を危ぶんだのだ)
彼が式神にのまれることなどないだろう。
あの四神の一柱である玄武をも従えていると、まことしやかに囁かれているのだから。
そう、彼には祓えるのだ。この世に害をなす荒ぶる神を。
神を見、神を従える。
彼等、賀茂の一族は——。
神祇伯の胸の中に、黒く重い鉛のような感情が生まれる。
(どうして……)
神に生涯を捧げてきた自分だが、これまで一度たりともその声を聞いたことはなかった。
一番神に近いはずの神祇官であるというのに。
幾度も起こる天災。
どれほど祈りを捧げようとも、これまで神が応えることはなかった。
神祇伯という、神の僕の最高位についている自分であろうと、神にとっては取るに足らない塵に等しいものなのだろう。
新しく迎えた女御を溺れるように愛する帝によると、近年の平穏は木花咲耶姫の加護だという。
ならば、次は咲耶姫の再臨だという弘徽殿の女御を揺さぶり、国を護る神力が消えるかを確かめてみるのも良いかもしれない。
神祇伯は朱雀門に背を向けた。
この後は、都から疫神を駆る追儺の儀式の準備が始まる。
集まっていた官人達も、各々の仕事場へ戻って行った。
ついてこようとする部下達に構うなと言って散らせた彼は、神祇官の建物に向かって一人歩き始める。
しばらく歩き、塀を曲がったところで人影に気付いた。
その人物の姿を見た神祇伯は、にっこりと笑みを口元に浮かべる。
「おや、陰陽頭。追儺の準備に向かわなくてよいのか?」
祭祀用の白い袍を身に着けたまだ若い陰陽頭は、その銀に見える瞳に昏い色を湛えていた。
「伯。何故私がここにいるか、もうお分かりでしょうに」
「はて……」
わざとわからぬふりをして見せると、彼はその伶俐な貌を歪めた。
「あの巫がどうなったのか、聞かないのでしょうか」
冷ややかな声が神祇伯を責める。
ああ、とゆっくり頷いて見せた。苦悶の表情をはりつけて。
「昨夜の嵐……、柘榴は父親と同じ結末を選ぼうとしたのではないかな」
神祇伯の確認の問いに、陰陽頭は肯定するように目を伏せた。
「覚悟はとうにしていたよ。保護しようとしたのだが、どうしても見つからなかった。残念だが、彼女が事を起こす前に止めてもらえて良かったと思っている」
「本当にそう思っておられるのでしょうか」
「何が言いたい?」
自然と声に力が入るのを、かろうじて抑える。
柔らかく微笑んで見せると、陰陽頭の視線が揺れた。
まだ迷いがある。
彼は柘榴から聞かされているわけではない。
「辛い役目を負わせてしまった。鬼神にのまれてしまったとはいえ、血の繋がった相手を祓うのは苦しかっただろう。しかし、そのおかげで我々は無事に儀式を終えることが出来た」
形だけの神への祈りを——。
「伯、お聞きしたいことがあります」
そう言って、利憲は袖の中から一枚の乾いた葉を取り出す。
「これをご存知でしょうか」
「いや、知らぬ」
何故、彼がそれを持っているのか。
動揺を隠して神祇伯は首を横に振った。
すると、彼は『そうですか』と小さく呟く。
何故かその声は悲しげに聞こえた。
「この葉は反魂木、大陸の植物です。この木の樹皮や根を原料にした香を反魂香と呼び、大陸の術師が死者を呼び寄せるのに使うとされています」
「それが一体?」
「柘榴が少副殿に掛けた幻術の正体です。彼女はこの葉から調合した香を彼に与えました。少副殿は死者が甦るという彼女の言葉を信じて、この葉の引き起こす幻覚に溺れた」
知っている。
それは自分が指示した事だ。
有能な少副がいると、色々と不都合だった。
彼は聡い。
柘榴ともよく話をしていた。
だから、邪魔になる前に少し遠ざけておきたかった。
「君の弟子が少副の幻術を解いてくれて良かった」
流石に死なれると困る。
帝が中将を遣わす前に、あの状態を見られないようにする必要があった。
祓の得意だという陰陽生は適任だと思ったのだが、少し遅かった。
「伯、この反魂木から作り出された反魂香、それが内裏の中でも使われていました。それが怨霊騒ぎの原因です」
利憲は緑の葉を手のひらの上に乗せ、静かに見下ろす。
「反魂香を作る調合法までは、宋の書物にも載っていなかったのですね」
首の後ろがヒヤリとする。
冷たい川に投げ込まれた小石のように、意識がゆらゆらとただ沈む。
「私は彼女が幻術を使っているとしか口にしていません。内裏の怨霊の噂は近衛府にも報告されていないほどの些細なもの。それを、伯は『幻術の効果をはかる試金石』とおっしゃいました」
蝶の式神を使い、反魂木の葉を燃やした。
どのくらい薫くとどんな幻覚を見るのか、ある程度の人数の反応がみたかった。
香にするには効果を試す必要があった。
それを言葉にするわけにはいかない。
しかし、目の前の青年は、すでに気付いている。
自分が気付かずに口にした、たった一言で。
「伯はどうして内裏の噂の内容まで知っておられたのか。そもそも、この幻術を『試す』必要があったと思われたのは何故でしょう」
利憲はぎゅっと手のひらを握りしめた。
「もっと早く気付くべきでした。伯、貴方に誘導されていたことを」




