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(3-31)祈り

 ここはただの山村ではない。そして、渉もただ不思議な能力を持った人でもない。もっと大きな何かの中で生きている。

 環はようやくその入口に立った気はするものの、そもそも何から訊けばいいのかわからなかった。あまりにも自分の理解を超えた話ばかりだった。

 環の頭の中はまだ整理が追いついていない。


「渉さんは……人々の声が聞こえるんですか……?」


 ようやくそれだけを口にした。

 ヒサ子は穏やかに頷く。


「ええ、聞こえますよ」


 まるで「今日はいい天気ね」とでも言うような自然さだった。


「環さんの心の声も聞こえてますよ」


「ええっ!?」


 環は思わず大きな声を出してしまった。


「こ、心の声ですか!? 話してなくても聞こえてるんですか???」


 自分の考えていることが全部伝わっている――。

 そう思った瞬間、顔が熱くなる。


 昨日から今日にかけて自分は何を考えていただろう?

 渉のこと。

 この村のこと。

“お嫁さん”と言われて動揺したこと。

 そもそも、自分でも整理できていない感情ばかりだ。


(え!? 全部聞こえてたの!?)


 環の頭の中はさらに混乱した。

 そんな環を見てヒサ子はくすっと笑った。


「大丈夫よ。全部ずっと聞こえてるわけじゃないから」


「そ、そうなんですか……」


「どうも“意識を向けたら聞こえる”って感じみたい。だから四六時中、誰彼かまわず心の中を覗いてるわけじゃないのよ」


「意識を向けたら……」


 環は小さく繰り返した。

 まだよくわからない。だが、少しだけ安心した。

 ヒサ子は続ける。


「その辺の感覚は、また渉に直接聞けばいいわ」


「は、はい……」


 環はようやく落ち着きを取り戻しながら返事をした。

 するとヒサ子は、ふっと渉が座っていた場所へ視線を向けた。


「それでね、さっき“祈って欲しい”って言ったでしょう?」


「あ、はい」


「でも、それは“渉が無事でありますように”とか“がんばって”とか、そういう意味じゃないの」


「えっ?」


 環は目を(しばたた)かせた。


「無事を祈るんじゃないんですか?」


「ええ」


 ヒサ子は静かに頷く。

 そして、少し間を置いてからゆっくり続けた。


「渉の心の中にね、キレイな水晶の玉があるようなイメージをするの」


「水晶の玉……」


「その玉が曇らないように、丁寧に磨いてあげる感じ」


 環は、わかったようなわからないような気持ちだった。けれどヒサ子の言葉には不思議と抵抗感がなかった。何かの教えのようでもなく押しつけがましくもない。ただ静かだった。


「渉がやっていることが“良いこと”だから成功しますように、とか“正しいこと”だから守られますように、とか、そういう祈りじゃないの」


 ヒサ子の声はとても穏やかだった。だが、その言葉には長い年月をかけて辿り着いた実感のようなものがあった。


「良いとか悪いとか……本当は私たちにはわからないのよ」


 環は黙って聞いていた。


「誰かにとって良いことでも、別の誰かにとっては悪いことかもしれない。助かった人がいる一方で助からなかった人もいるかもしれない」


 ヒサ子は決して悲しそうではなかった。

 ただ、静かに現実を受け入れているようだった。


「だから“うまくいきますように”じゃないの」


 そう言って、胸の前でそっと両手を重ねる。


「淀みのない心で物事に向き合えますように――って祈るの」


 環はその言葉を胸の中でゆっくり反芻した。


 淀みのない心。

 それはきっと、迷いや欲や恐れに飲まれない心のことなのだろう。


「曇りのない心で人の声を聞いて、曇りのない心で“捲る”ことができるように。そのために心を磨いてあげるの」


 そう言って、ヒサ子はやさしく微笑んだ。

 環は、その笑顔を見ながら思う。


(この人は……ずっとこうやって渉さんを支えてきたんだ……)


 能力そのものではなく。

 結果でもなく。

 渉の“心”を守ろうとしてきたのだ。


 それは環が想像していた“支える”とは、まったく違うものだった。

 けれど同時に、とても大切なことのようにも感じられた。


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