(3-29)環の朝
同じ月曜日――。
奥袴狭に残った大村環は目を覚ました瞬間、自分でも驚いていた。
体が軽かった。
まるで長いあいだ身体の奥に溜まっていた澱のようなものが、一晩ですっかり抜け落ちてしまったようだった。
見慣れない天井。
山の静けさ。
虫の声。
遠くで鳥が鳴いている。
深く眠れたという満足感が身体全体を包んでいた。
(なんだろう……この感じ……)
東京での暮らしは眠っても疲れが抜けない日が多かった。会長秘書という仕事柄、常に気を張っていたということもある。夜中でも電話は鳴るし急な予定変更など日常茶飯事だった。
だからこそ、この静かな満足感は不思議だった。身体の芯が整ったような感覚がある。
環は布団の中でしばらくぼんやり天井を見つめていたが、やがて台所の方から小さな物音が聞こえ始め慌てて起き上がった。
「あっ……!」
時計を見ると思ったより時間が過ぎている。
急いで身支度を整えて居間へ向かうと、ヒサ子が振り返って微笑んだ。
「おはよう、環さん。よく眠れた?」
「あ、はい……すみません、起きるの遅くなってしまって」
「いいのいいの。そんなこと気にしないで」
そう言われ、環は少しほっとした。
朝食の準備を手伝う。
味噌汁の香り。
焼き魚の音。
炊きたてのご飯の湯気。
どれも、どこか懐かしかった。
環の記憶にはこういう「家庭の朝」がほとんどない。両親を亡くしたあと、兄と二人で支え合って生きてきた。もちろん兄は大切な存在だったが、こうして誰かと一緒に台所へ立ち、朝食を囲むような生活とは違っていた。
やがて渉も居間へ現れ、三人で朝食を囲む。
渉は相変わらず静かだった。
必要以上に喋らない。
だが、不思議と気まずさはない。
ヒサ子が「今日はいい天気になりそうねぇ」と言えば、渉が小さく頷く。そんなささやかなやり取りだけで、家の空気は十分に満たされていた。
(心地いい……かも……)
環は味噌汁を口に運びながら思う。
豪華な食事ではない。
けれど、とても満たされる。
心まで温まっていくようだった。
朝食後、片付けを終える頃には環の気持ちはさらに落ち着いていた。
その時だった。
ヒサ子が、ふっと居住まいを正した。
「環さん」
「はい」
「あらためて、ありがとう。渉のそばに居たいって言ってくれて」
その声は穏やかだった。
だが、どこか深い実感のこもった言葉だった。




