(3-28)胸いっぱいに
何とか落ち着きを取り戻した忠史の顔を見て、本橋がふっと表情をゆるめた。
「遠藤くん、そろそろお腹すかないか?」
「あ!」
言われた瞬間、それまでどこかへ消えていた感覚が一気に身体へ戻ってくる。
空腹だった。
とてつもなく。
今日は朝から何も食べていない。いや、正確には“食事”というもの自体を忘れていた。頭の中が混乱でいっぱいで、腹が減る余裕すらなかったのだ。
だが、本橋の何気ないひと言で急に胃が存在を主張し始めた。
「すきました!」
思わず即答していた。その返事に本橋がくすっと笑う。
「よしよし」
そして座ったまま階下へ向かって声を張る。
「きっしー、お願いー!」
すると、すぐに階段を上がってくる足音がした。
岸本がひょいと顔を出す。
「お、どうした?」
そして忠史の顔を見るなり、にやっと笑った。
「おっ、兄ちゃん、いい顔になったねぇ」
忠史は少し照れくさくなり小さく笑う。
さっきまで自分がどんな顔をしていたのか、何となく想像できてしまった。
「お昼お願いしようと思って。何ができる?」
そう言う本橋に、岸本は腕を組みながら「大抵のもんなら作れるよ」と胸を張った。
「肉もあるし魚もあるし……若者だからカツ丼でもどうだ?」
その言葉に、忠史の胃がさらに反応した。
「あ、ありがとうございます! 食べたいです!」
ほとんど反射だった。
本橋も笑って「じゃ、オレも同じので」と続ける。
「あいよ。カツ丼二丁ね」
岸本は満足そうにうなずいた。
「了解了解」
そう言って、にこやかに階段を降りていく。
その背中を見送りながら、忠史はぼんやり思った。なんだかこの店は不思議と安心する。初めて来たはずなのに、どこか人の体温がある。
下の階から包丁の音が聞こえてきた。
トントントン
小気味いい音。
続いて、油の弾ける音。
じわりと漂ってくる揚げ物の香り。忠史は、自分がようやく“日常”へ戻ってきたような気がしていた。
ほんの数十分前まで、
“渉が死ぬかもしれない”
“自分の人生が終わるかもしれない”
そんな極端な思考に飲み込まれていたのに、今はカツ丼の匂いで腹を鳴らしている。それが妙におかしくて少し笑いそうになってしまった。
やがて、岸本がお盆を持って上がってきた。
「はい、お待ちどうさん」
湯気の立つカツ丼。
味噌汁。
小皿の漬物。
シンプルだが見ただけで腹が鳴る。
岸本はお膳を並べながら「どうぞ、ゆっくり召し上がれ」と言って、また階下へ戻っていった。
忠史は「いただきます」と小さく言って箸を取る。
カツをひと口。
サクッという衣の食感。
甘辛い出汁。
ふわっとした卵。
熱々のご飯。
――うまい。
本当にうまかった。
空腹だったから、だけではない。身体の奥にまで染み込んでくるようなおいしさだった。
二口、三口。
夢中で食べ進める。すると、不意に視界がぼやけた。
「あれ……」
涙だった。
ぽたぽたとご飯の上に落ちる。
忠史は慌てて顔を背けたが、涙は止まらなかった。
情けなかった。
勝手に混乱して勝手に追い詰められて。
そんな自分が情けなかった。
でも、それ以上に嬉しかった。
本橋が話を聞いてくれたこと。
岸本が何も聞かず迎えてくれたこと。
奥袴狭のみんな。
渉。
ヒサ子。
仁。
環。
みんなが、ちゃんと自分を受け止めてくれている。
そのことが、急に胸いっぱいになった。
忠史は泣きながら食べ続けた。
涙をぬぐっても、また出てくる。
それでも箸は止まらない。
カツ丼も止まらない。
本橋はそんな忠史を見ながら何も言わなかった。
「泣くな」とも。
「大丈夫」とも。
何も言わない。ただ静かに自分のカツ丼を食べながら目の前の青年をやさしく見守っていた。
その沈黙が、今の忠史には何よりありがたかった。




