(9)中村家
にやにやしていた忠史の背後で樹がぽつりと言った。
「おウチくる?」
「え? おウチ? 樹くんのおウチってこと?」
「うん」
「行きたい」
そう言うと、樹は勢いよく部屋を出で近くの家へ飛び込む。忠史はあわてて追いかける。
「ただいまー」
元気よく言うと「パパママお客さんだよ」と続ける。
「お客さん?」
そう言って四十代前半ほどの男性が部屋から出てきた。細身でやわらかい雰囲気で目が澄んでいる感じがした。
「あ、あの初めまして。遠藤忠史といいます」
「中村です。この子の父親です」
ぺこりと頭を下げる中村。奥からエプロン姿の女性も顔を出す。
「こんにちは。母の由紀です。こんな山奥にねぇ……びっくりされたでしょう?」
穏やかな笑顔。
忠史は思わず背筋を伸ばす。
「あ、はい、正直……かなり驚いてます」
中村は小さく笑った。
「ですよね。普通はたどり着きませんから」
「どうぞ座ってください。さっき渉さんから事情は少し聞きました」
土間の奥、畳の部屋へ案内される。低い座卓に湯気の立つお茶。生活の匂いがある。確かにここは“誰かの家”だ。
「えっと……中村さんたちは、もともとこちらの方なんですか?」
忠史が聞くと、中村は首を横に振った。
「いえ。私は東京にいました。作家です。小説を書いています」
「作家……」
「サラリーマンではありません。家で仕事ができます」
由紀がやわらかく続ける。
「都会での生活にもう疲れてしまって」
中村が言葉を継ぐ。
「樹が生まれてから何というか……この子をあの環境で育てたくない……と思ったんです」
忠史は思い浮かべる。都会の雑踏。人の波。音。
「それで、渉さんに相談したんですか?」
「ええ。ある縁があって知り合いまして」
縁、という言い方がどこか含みを持つ。
「最初は半信半疑でした。でも……」
中村は少し遠くを見る。
「ここを見せてもらったとき決めました」
「奥袴狭を?」
「はい。ここなら静かに生きられる。必要なものだけで暮らせる、と」
忠史は思わず口にする。
「じゃあ、中村さんたちは……そもそもここの人じゃないんですね」
「ええ」
「他にもそういう移住してきた人っているんですか?」
一瞬の間。
中村は静かに微笑んだ。
「いいえ。うちの家族だけです」
その言葉が部屋の空気を少しだけ重くする。
うちの家族だけ。
では、この集落の“他の家”は? 生まれながらの住人ってこと?
それとも――。
由紀が空気をやわらげるように立ち上がる。
「少し早いですけどそろそろ夕飯の支度をしますね。今日は少し賑やかで嬉しいです」
「え? あ、夕飯……ご一緒させてもらっても……」
「もちろんです。どうぞ遠慮なさらず」
あまりの事態に食事のことなんてまったく考えていなかった。




