(3-18)帰ってきた場所
夕食が終わり、後片付けまで済んだ頃には外はすっかり夜になっていた。居間にはまだ食後のお茶の香りが残っている。
環は湯呑みを両手で包みながら、ぼんやりと考えていた。
――どうしよう。
今日はもう東京へ戻るべきだろうか。それとも、もう少しここに居たいとお願いしてみてもいいのだろうか。もし本当にここで暮らすことになるなら、部屋の整理もしないといけない。必要な荷物だってまとめなければならない。
だが、不思議と今は“帰りたい”という気持ちがあまり湧いてこない。むしろ、この静かな空気の中にもう少し身を置いていたかった。
そんなことを考えていると、忠史が立ち上がった。
「環さん、ちょっと外に出てみませんか?」
「え? 外ですか?」
環はきょとんとする。
こんな山の中だ。もう真っ暗なはずだった。
「ええ。たぶんびっくりすると思います」
忠史はどこか楽しそうに言う。そこまで言われると気になる。
環は湯呑みを置き「わかりました」と立ち上がった。
何だろう。季節外れのホタルでも見られるのだろうか。そんなことを思いながら先に外へ出た忠史に続く。
そして――。
一歩、外へ出た瞬間だった。
環は思わず立ち止まった。
「……え……」
言葉が出ない。
夜の奥袴狭は淡い光に包まれていた。
家々の輪郭。
畑。
木々。
小道。
それらすべてがほのかな青白い光に浮かび上がっている。まるで月明かりだけで照らされているようにも見える。
だが違う。光は空からではなく、この土地そのものから滲み出ているようだった。
風が吹くたびに木々の間に淡い輝きが揺れる。
静かなのに、どこか生きているような夜。
幻想的――という言葉でも足りなかった。
環はしばらく立ち尽くしたままその景色を見つめていた。
ようやく、ぽつりと声が漏れる。
「……何ですか、これ……」
それが、やっと口にできた言葉だった。
忠史は小さく笑う。
「すごいですよね」
その声には、初めてこの景色を見た時の感動がまだ残っていた。
「僕も初めて見た時、ほんとに言葉が出ませんでした」
忠史自身、この景色を知ったのはほんの数ヶ月前だ。
だが何度見ても飽きない。むしろ見るたびに“これは本当に現実なんだろうか”という気持ちになる。
静かな山村。なのに夜になると世界そのものが少し変わる、そんな不思議な場所だった。
すると二人の後ろで、引き戸が静かに開く音がした。
ヒサ子が縁側へ出てきていた。
「あったかいお茶でもどうかと思ったけど……」
そう言いかけ、二人の様子を見てふっと微笑む。
「やっぱり最初は驚くよねぇ」
環はまだ景色から目を離せないまま小さく頷いた。
するとヒサ子が、夜の集落を見渡しながら言った。
「昔から、この辺りは地脈が強い土地だって言われていてね」
「地脈……ですか……」
忠史が繰り返す。耳慣れない言葉だった。
環も同じだった。だが、この光景を見た後では“そういうものがある”と言われても不思議とは思えない。
ヒサ子はゆっくり続ける。
「お父さんは『地脈からエネルギーが出てるんだ』って言ってたよ」
“お父さん”というのは渉の父のことだろう。
環は静かに耳を傾ける。
「私には難しいことはよくわからないけどねぇ」
ヒサ子は少し笑った。
「でも、そういうエネルギーが出てて、私たちが何か力をもらえてるなら……ありがたいことだねぇ」
その言葉は、まるでこの土地そのものへ感謝しているようだった。
環は再び夜の集落を見る。
淡い光の中に浮かぶ奥袴狭。
そこには恐ろしさは無かった。
ただ静かで優しくて――どこか自分が帰ってきた場所みたいに感じられた。




