(3-12)その力の中へ
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします」
環は思わず身を乗り出すように頭を下げた。
その声には心から安堵した響きが混じっていた。
渉のもとで働きたい。そう思ってからというもの、環の頭の中はそのことでいっぱいだった。会社を辞めたことも自分のこれからも、すべてがその願いへ繋がっていた。だからこそ、もし断られていたらその先をどう生きればいいのかきっとわからなくなっていた。
胸の奥に張り詰めていたものがようやく少しだけほどけていく。
「あの、それで……これからのことなんですけど……」
環は改めて姿勢を正し、少し緊張した面持ちで続けた。
「さきほど遠藤さんからお聞きしたんですが、道の無い人里離れた村にいらっしゃるということで……」
そこまで言って小さく苦笑する。自分で口にしていてもまだ現実感が薄い。
「私はおそばに居たい一心なんですが……具体的にどうすればいいのかな、と……」
環は今の自分の戸惑いを隠さずそのまま言葉にした。
渉は静かに頷く。
「そうですね。一度村に来ていただきましょう」
「あ、えっと、はい。行きたいです」
即答だった。
もう迷いはなかった。
その返事を聞いた渉は、今度は忠史へ視線を向ける。
「遠藤さんも一緒に来られますか?」
「はい、僕も行きたいです」
忠史も自然と頷いた。
すると渉は、まるで近所へ出かけるかのような穏やかな口調で言った。
「では行きましょう。二人とも私に触れて目を閉じてください」
環は思わず息を呑んだ。
以前、高輪の須永邸から軽井沢の別荘へ一瞬で移動した時の感覚が蘇る。あの時は状況に飲み込まれるだけだったが今は違う。自分の意思でその力の中へ踏み込もうとしている。
どきどきと胸が高鳴る。環はゆっくりと渉の腕に触れ、そっと目を閉じた。
隣では忠史も同じように目を閉じている。
風の気配。
木々のざわめき。
新宿御苑の空気。
それらが薄れていき、周囲の音が遠ざかる。
――捲る。
またしても一瞬だった。
足元が消えるような浮遊感と、それでいて不思議な安心感が同時に押し寄せる。
「はい、もう目を開けて大丈夫です」
渉の静かな声が聞こえた。
環は恐る恐る目を開ける。そこに広がっていたのは新宿御苑ではなく、周囲を深い木々に囲まれた小さな集落。
澄んだ空気。
土と草の匂い。
遠くから聞こえる鳥の声。
数軒の家が静かに佇み、山の気配そのものに包まれている。まるで世界から切り離された場所だった。
「……ここが……」
環は呆然と立ち尽くした。
渉が静かに言う。
「奥袴狭です」
そして環は理解した。
自分は今、本当に来てしまったのだと。




