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(3-9)環の決断

 環はしばらく何も言わずに考えていた。

 玉藻池の水面は変わらず静かで、風がそっと撫でるたびに小さな波紋が広がっては消えていく。遠くで鳥の声がして、それがかえって沈黙を際立たせていた。

 忠史は何も言わなかった。急かすつもりはなかったし、急かしていい話でもないとわかっていた。


 やがて――


「やっぱり、すごいですね……」


 環が顔を上げた。その表情には戸惑いと、それ以上の何かが混じっていた。


「道がない、外界から閉ざされた村で過ごす……そんなこと考えたこともありませんでした」


 当然だった。忠史自身も奥袴狭の存在を知るまでは、そんな場所が現実にあるとは思いもしなかったのだから。

 ほんの少しの間を置いて環は続けた。


「わかりました。行きます……いえ、行きたいです」


 その言葉ははっきりとしていた。迷いを振り切ったあとのまっすぐな響きだった。しかも、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。


「村ということは、そこには他にも村人がいらっしゃるということなんですよね?」


「あ、はい。数軒の家があります。行ったらすぐわかりますが、東京から移住されているご家族も居ます」


「え!? そうなんですか!」


 環は驚きの声を上げた。道もないような場所にわざわざ移り住む人がいる。その事実が彼女の中で何かを大きく動かしたようだった。


「すごい……だったら早く行ってみたくなりました」


 その言葉とともに表情が一段と明るくなる。まるで未知の世界への扉を前にした子どものような純粋な期待がそこにあった。

 そして、ふと思い出したように言う。


「あ! だったら、いっそ今の部屋を解約して引っ越しという風に考えた方がいいですよね?」


「あ、いや、それは性急というか……」


 忠史は少し苦笑しながら首を振った。


「まずはどんなところか一度行ってみて……いや、まずは渉さんとお話ししてみて、先のことはそれから考えればいいと思います」


 その言葉は環の勢いを否定するものではなく、少しだけ現実に引き戻すためのものだった。


「あ、そうか……そうですよね……」


 環は照れたように笑った。


「まだ奥村さんにOKをいただいていませんでした」


 その素直さに忠史も思わず笑みを返す。


「じゃあ、渉さんに声をかけてみますね」


 そう言って、忠史はゆっくりと目を閉じた。

 ざわめきの少ない朝の御苑。風の音と水の気配だけが周囲を満たしている。

 その静けさの中で、忠史は心の奥へと意識を沈めていく。


 ――渉さん。


 言葉にしない呼びかけが確かにどこかへ届いていく気がした。


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