(3-8)環への返事
翌日曜日、忠史と環は開園と同時に新宿御苑へ入った。
朝の空気が気持ちよく、都心とは思えないほど静かだった。人もまばらで、芝生の緑や木々のざわめきがゆるやかに一日の始まりを告げている。
二人は玉藻池の脇にあるベンチに腰を下ろした。水面は穏やかで、時折吹く風にかすかな波紋が広がる。
「きれいなところですね。何年も東京に住んでて初めて来ました」
環が感心したように周囲を見渡した。
「この前の喫茶店でもよかったんですけどせっかくだし……御苑は何度か来たことあるんです」
忠史はそう言いながら静かな園内に目をやる。
ここは渉もよく知っている場所だ。もし必要になればここに来てもらい、そのまま奥袴狭へ連れて行くこともできる。そんな可能性を忠史は心のどこかで想定していた。
少しの沈黙のあと、忠史は意を決して口を開いた。
「で、先日のお話のことなんですけど……その前にお伝えしておくことがあります」
環はすぐに姿勢を正した。空気がわずかに引き締まる。
忠史はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
奥袴狭のこと。兵庫県の袴狭集落のさらに奥、人里離れた場所にある“奥村”という集落であること。
そして――そこへ至る道が存在しないこと。
一つひとつ確かめるように語っていく。
「普段、渉さんはそういう村で生活されていて……渉さんのそばで仕事をするということは、環さんもそこで生活していただくことになります」
「道がないって……」
環は思わず言葉を漏らした。
無理もない話だった。現代の日本において“道がない村”など現実味がない。だが、目の前にいる忠史が冗談や嘘を言っているようには見えない。そして何より――彼女はすでに渉の人知を超えた力を目の当たりにしている。
だからこそ、完全には否定できなかった。
「だから……日中はそこで仕事して夜には自宅に帰ってくる、みたいな生活にはならないと思います」
忠史の言葉は静かだったが、その意味は重かった。
環は何も言えなかった。
理解しようとしているのは伝わってくる。だが、その情報量と現実離れした内容に言葉が追いついていない。
しばらくの間、ただ玉藻池の水面を見つめるだけだった。
「もちろん……環さんが『夜はどうしても帰りたい』みたいなことを言えば、渉さんは連れて帰ってくれるとは思いますが……」
その一言に、環ははっとしたように顔を上げた。
「あ……」
そして、ゆっくりと理解を言葉にしていく。
「道がない山奥の村だから……奥村さんの力がないと行き来できない、ということなんですね……」
ようやく、ひとつの形として腑に落ちたようだった。
忠史は小さく頷いた。
現実と非現実の境界線に、環はいま足をかけている。




