(7)奥袴狭1
家のひとつの戸がゆっくりと開いた。軋む音はしない。手入れされているのがわかる。
現れたのは三十歳前後の男性。その後ろから少しだけ顔を出す子ども。
さっきの子だ。
男性は穏やかに微笑んだ。
「すごいね。本当にお客さんだ。教えてくれてありがとう」
そう言って子どもの頭を撫でる。
子どもは何も言わずじっと忠史を見ている。
「驚いたでしょう。よくたどり着きましたね」
男性は一歩前に出た。
「ようこそ奥袴狭へ。どうぞ」
茫然と立ち尽くしていた忠史は、声をかけられてようやく我に返る。
「あ、どうも……あ、ありがとうございます。お、おじゃまします」
自分の声が少し上ずっているのがわかった。
家の中へ足を踏み入れる。
土間。
踏み固められた土。
木の柱。
低い天井。
昔の田舎の家という印象。だが古びてはいない。掃き清められ、磨かれ、いまも人が使い続けている家だとすぐにわかる。
囲炉裏はあるがガスコンロも置かれている。
電灯もある。
タイムスリップしたわけではなさそうだ。
ただ――
山奥にある、という事実だけが異質だった。
何から聞けばいいのか。
何を話せばいいのか。
忠史の中に“不思議”が溢れすぎて言葉にならない。
男性が先に口を開いた。
「私は奥村渉と言います」
穏やかな声。
「この子はいつき。樹木の樹と書いて“いつき”です。近所の子です」
「……」
樹は無言で会釈した。
「あ、遠藤忠史です。大学生です」
自分の名乗りが妙に場違いに思える。
「えっと……遺跡を見に行こうとして下のキャンプ場にいまして……そこで、奥に集落があるみたいなんて噂を聞きまして……せっかくだから行ってみようかな……なんて、そんな感じで」
渉は頷きながら静かに聞いている。
樹もそばでおとなしくしている。
「で、もうどっぷり山の中に入ってしまって……どうしようか、引き返そうか、と思っていた時に、その子……樹くんが見えて。幻覚かとも思いつつ無我夢中で追いかけたらここに着いた、という感じで……」
言い終えるとどっと疲れが押し寄せた。
「そうでしたか」
渉は穏やかに微笑む。
「ここにお客さんなんて、たぶん私が生まれてから初めてだと思います」
さらりと言う。
「以前はたまにあったようですが。今はすき好んで道のない山中を歩く人なんて居ませんから」
軽く笑う。だがその目はどこか観察するようでもあった。
「ところで、今日はどうされますか?」
「どう、とは?」
「すぐ帰りたいのか、しばらくここに居たいのか。そういう話です」
少し首を傾げて続ける。
「と言っても、別にホテルなんてありませんからここで一緒に寝泊まりする、ということになりますが」
また柔らかく笑う。
忠史は黙る。
すぐ帰ると言っても――道がない。今、来た山中を正確に戻れるとは到底思えない。
それに。
どうやって暮らしているのか。
なぜ地図にないのか。
電気は? 水は? 食料は?
それが気になる。
すごく気になる。
「……あ、いや、別に何か予定があるわけではないので……」
少しだけ息を吸う。
「是非、今晩泊まらせてください」
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
「わかりました。大丈夫ですよ」
渉は即答する。迷いはない。
すぐ横の襖を開ける。
「では、この部屋をお使いください」
六畳ほどの和室。畳は新しくはないが清潔だ。
窓の外には山の緑。
「ちょっと私は用事がありますので、いったん失礼しますね」
渉は立ち上がる。
「樹がいますので何かあれば樹に言ってください」
そう言って静かに家を出ていった。
戸が閉まる音。
残されたのは忠史と樹。
しばらく沈黙が続いた。




