(6)滝の奥
翌朝。
空気は澄みきっていた。川のせせらぎはやわらかく夜の重さはすっかり消えている。
忠史がテントを出ると夫婦はすでに起きていた。コーヒーを飲みながら静かに川のほうを見ている。
「おはようございます」
「おはよう。行くの?」
男性が穏やかに笑う。
「はい、ちょっと見てきます」
女性が少しだけ目を細めた。
「気をつけてね。無理はしないで」
その言葉に見送られ忠史は歩き出す。滝へ向かう道は朝日を受けて明るい。
一の滝。水しぶきがきらめく。
二の滝。岩肌をなめるように流れる水。
三の滝。音が重なり山に反響する。
そして白糸の滝。
細くまっすぐに落ちる水が白い糸のように揺れている。
「さ、ここからだ」
忠史は深く息を吸う。
さらに進む。舗装されていた道はやがて砂利道に変わる。砂利は次第にまばらになり、踏み固められた土に変わり、そして道がなくなった。
ただの山。
木々と下草と斜面。
「よし、進もう」
独り言のように呟く。
とにかく帰りがわからなくなったら大変だ。後ろを確認しつつ今来た方向がかろうじてわかる距離を保ちながら進む。
木の並び、岩の形、倒木の位置。目印を記憶する。
だが、数分進むだけで景色は均質になる。どこを見ても似たような幹、似たような葉。まさに山の中。どう考えても集落なんてあるわけがない。
スマホを取り出し地図アプリを開く。現在地は表示されるが道も建物も何もない。
緑一色。
「でもなぁ……」
胸の奥がざわつく。もう少し進んでみよう。
まだ大丈夫だ。
まだ行ける。
まっすぐ進んできている。だから最悪は後ろにまっすぐ引き返せばいい。そう思って振り返る。
道は見えない。
目印にした倒木も岩も似たようなものばかりだ。三六〇度同じような風景。
「……もしかして……ヤバい状況か?」
喉が渇く。
焦る。
だが同時にもう少しだけという衝動が残っている。
スマホを見る。歩き始めてからもう一時間以上経っていた。
「こんな山の中で一時間って……」
思わず苦笑する。
「オレ、何やってんだ?」
引き返そうか。
いや、でも。
そのときだった。
少し先、木立の間で何かが動いた。
いや、動いた気がした。
「……動物?」
心臓が跳ねる。
「まさか……クマ!?」
目を凝らす。二十メートルほど離れている木陰からこちらを見ている小さな影。
背は低い。
黒い髪。
子ども?
「え?」
ありえない。
こんな山の奥に。
「幻覚……?」
瞬きをする。だがそこにいる。確かにいる。その子はじっと忠史を見ていた。
表情はわからない。だが視線は感じる。
次の瞬間。
すっと木の後ろに隠れた。そしてさささっと走り出す。
軽い足音。
「あ! 待って!」
思わず叫ぶ。声が届いたかはわからない。
だが――
間違いない。子どもがいた。気がつけば忠史はその方向へ足を踏み出していた。枝を払い斜面を越え「たぶんこっちだったよな」という頼りない感覚だけで進む。
冷静な自分がどこか遠くで警告している。
戻れ。
戻ったほうがいい。
だが足は止まらない。
数分。いや体感ではもっと長い。木々の密度がふっと薄くなった。光が差し込む。
そして――
そこにあった。
小さな集落。
木造の家が、五、六軒。
煙突のようなもの。
畑らしき平地。
洗濯物のような布が揺れている。
人の生活の痕跡。
「……うそだろ」
地図には何もなかった。
道もなかった。
だが確かにある。
忠史はしばらく立ち尽くしていた。




