(3-4)環の希望
「私、会社を辞めたんです」
その一言は静かな喫茶店の空気をわずかに揺らした。
「え? あ、そうだったんですか!?」
忠史は思わず声を上げた。予想していなかった告白に手にしていたカップを危うく置き損ねそうになる。
「やはり、会長さんが亡くなられたから……」
自然とそう口にすると、環は小さく頷いた。
「はい……私は入社してすぐ秘書課に配属されて、会長は当時まだ社長でしたから社長秘書ということで常に行動を共にするような毎日で……」
懐かしむように少し遠くを見る目になる。
「大変でしたけど、とても勉強になりましたしとても鍛えられたと思っています」
その言葉には、苦労を語る響きよりも誇りのほうが強く滲んでいた。
「数年後に社長が会長になられた時、私は新社長の秘書よりも会長の秘書になりたいってわがまま言ったんです」
そう言って環は自嘲気味に笑った。
忠史もつられて口元を緩める。
「須永さん……僕はベッドで寝たきりの御姿しか知りませんけど、相当人望があるんだろうという感じはしました」
あの部屋に満ちていた空気感。言葉にしなくても伝わってくる存在の大きさを忠史は思い出していた。
「はい。有能で人望も厚く、とても尊敬できるお方でした」
環は迷いなく言った。
「そばで仕事できることが本当に幸せでした」
その声には秘書としての忠誠心以上の深い感謝が込められていた。
そして、少しだけ表情を引き締める。
「その会長が亡くなられてしまった今、私は会社にいる理由がなくなってしまったんです」
言い終えると、環はカップを手に取りひと口だけコーヒーを飲んだ。その仕草には、次の言葉を口にするための覚悟のようなものがあった。
「そんな時に……目の前に現れたのが奥村さんだったんです」
「え? 渉さんのことですか!?」
忠史は再び驚き、思わず身を乗り出した。
「はい……あの能力を見て心からすごいと思いました。人々の願いを叶えて……それでいてとても静かで……」
環の視線はテーブルの上に落ちていたが、その声音には熱があった。
「そうですね……渉さんは本当にすごいのに全然偉ぶらないし、とても良い人です」
忠史も自然と力を込めて答えていた。
環は一度、息を整えた。そして意を決したようにまっすぐ忠史を見る。
「会長も“神の使い”とおっしゃってましたけど本当にそうだと思って……だから私、今後は奥村さんのおそばで働けないかと思ってるんです」
「え!?」
忠史は目を見開いた。
――そうか。
そういうことだったのか。
本橋先生ではなく渉のもとで働きたい。
状況こそ違えど、その感情は忠史にも痛いほどわかった。
渉に惹かれた。
奥袴狭という場所に惹かれた。
あの世界の中に、自分の居場所があるのではないかと思ってしまった。
だからこそ、東京で学生をしている自分が時折ひどくもどかしく感じられる。
環の言葉はまるで自分の胸の内を別の形で聞かされているようだった。
忠史は環の気持ちがとてもよくわかる気がしていた。




