(2-33)神の使い
またしても目の前で人が消えたことに立ち尽くす環だったが、しばらくするとゆっくりと胸の前で手を合わせた。
(きっと大丈夫)
自分に言い聞かせるように。
(よろしくお願いします)
この状況で忠史は何も言えずにいた。そして本橋も渉も居なくなってしまった今、自分は何をどうすれば良いのかまったくわからずにいた。
(オレ……どうすればいいんだ?)
静まり返ったリビング。さっきまでの慌ただしさが嘘のように音が消えていた。
忠史はふうっと息をつき、とりあえずソファに腰を下ろした。
(……一気にいろいろ起きたな……)
ぼんやりと天井を見上げたそのときだった。
「大村くん、居るか?」
低く、しかしはっきりとした声。
ベッドの方からだった。
「……!」
環がすぐに反応する。
「あ、はい! おります。会長、お目覚めですね」
駆け寄りながら少し明るい声で応じる。
「あぁ……」
栄一はゆっくりと目を開け、天井を見つめている。
「なんだか……天井が違って見えるが……」
その言葉に環がふっと笑顔になる。
「そうなんです会長。ここ軽井沢ですよ」
やさしく、しかしはっきりと伝える。
「約束通り、会長がお休みになっている間に連れてきてくださいました」
その言葉を聞いて栄一はしばらく黙っていた。やがて――
「そうか……軽井沢か……」
小さく噛みしめるように言う。
「着いたのか……全然気づかなかったな」
ゆっくりと息を吐く。
「すごいな……さすがだ」
その声には心からの納得と、どこか満足したような響きがあった。そして視線を窓の方へ向ける。
「……窓を開けてくれるか。全開にしてくれ。風を感じたい」
「はい」
環が頷く。
「遠藤さん、お願いできますか」
「あ、はい!」
忠史もすぐに立ち上がり、二人で手分けして一階の窓を次々と開けていく。鍵を外し窓を押し開けるたびに外の空気が流れ込んでくる。
やわらかい風。
木々の匂い。
遠くで葉が揺れる音。
すべてが部屋の中へ入り込んでくる。
「あぁ……いいな……」
ベッドの上で栄一が目を細め、ゆっくりと深く息を吸う。
「クーラーじゃない。軽井沢の匂いがする」
その言葉はとても穏やかだった。
忠史はその表情を見て思わず動きを止める。昨日とはまるで違う印象だった。
「……お礼が言いたいが……さっきの人たちは居るかい?」
「あ、今は僕だけで……」
忠史がそう言い始めると、その言葉を遮るように環が話し始めた。
「会長、実は……」
奥村渉のこと。
その特殊な能力のこと。
自分と会長とベッドを瞬時に移動させてくれたこと。
そして、兄のことも。
「……それで」
声が震える。
「私……思い切ってお願いしたんです」
目に涙が滲む。
「兄が行方不明で……助けてほしいって……」
言葉を続けながら涙がこぼれる。
「そしたら……すぐに見つけてくださって……さっき……無事に戻ってきて……今は診療所で検査してもらってます……」
声は途切れがちになるが、そのひとつひとつに想いが乗っていた。
「うん……うん……」
栄一はときおり小さく相槌を打つだけでただ静かに聞いていた。
環は最後に顔を上げ、涙で濡れたまままっすぐに言った。
「だから……会長のおっしゃった通り……奥村さんは本当に神の使いだったと思います」
その言葉で話を終えた。




