(2-29)環の祈り
黒い画面を見つめていた渉がふっと視線を上げた。
そして静かに言う。
「わかりました。たぶん行けると思います」
その一言に空気が一変した。
「え!?」
環が思わず身を乗り出す。
「本当ですか!? 兄は無事なんですか!?」
言葉が堰を切ったように溢れ出る。その必死さに忠史は思わず息を呑んだ。だが渉は変わらぬ落ち着いた声だった。
「お兄さんは何というお名前ですか?」
「芽来です。大村芽来」
「わかりました。まず、確かめてきます」
断定はしない。だが、その言葉には迷いがなかった。
そして本橋へと視線を向ける。
「本橋先生、ここで大村さんと待っていてください」
続けて忠史の方へ。
「遠藤さん、一緒にお願いします」
言いながら渉はすぐに玄関に向かう。
「あ、はい!」
忠史はほとんど反射的に返事をし、リュックから靴を出しつつ渉を追う。靴を履いたと同時に渉の手が肩に置かれる。これまでで最も熱いように感じる。そして同時にもう片方の手がゆっくりと持ち上がる。
(あ……くる!)
忠史はすぐに目を閉じた。
――捲る。
空間がふわりと揺らぐ。
玄関が靄に包まれ、音も匂いもすべてが遠ざかる。
一瞬の出来事だった。
残されたリビング。あまりにも唐突な出来事に環はその場に立ち尽くしていた。
「……え……?」
声にならない声。
玄関から外に出たわけではなく、その場から二人が消えた。さっきまで確かにそこにいたのに。
理解が追いつかない。驚きが遅れて押し寄せてくる。
「……いまの……」
言葉が続かない。ただ胸の奥がざわざわと波立つ。
そんな環の様子を見て本橋が静かに口を開いた。
「驚きますよね……」
その声はどこか柔らかかった。
「でも、渉くんなら何とかしてくれると思います」
環はゆっくりと本橋の方を見る。
本橋は続ける。
「あの写真……あの黒い写真の向こう側に何かが見えたんだと思います」
一拍置く。
「そこへ向かったのでしょう」
その言葉は説明になっているようでなっていない。だが不思議と納得してしまう。目の前で起きた現象がすでに常識を超えているからだった。
環はゆっくりと息を吸い、震えていた指先をそっと握りしめる。
(……信じるしかない)
いや、もう信じている。あの瞬間を見てしまった以上疑う余地などなかった。
視線が自然と窓の外へ向く。そこには静かな森。その向こうへ今あの人たちは向かっている。
「……奥村さん」
小さく呟く。
そして、胸の前で手を合わせた。
「お願いします……」
その声は祈りだった。
ただひとつ。兄の無事を願う切実な祈り。




