(2-26)大村環1
翌日、再び高輪の須永邸へ。
昨日と同じ門構え。同じ静けさ。だが、その空気はどこか違って感じられる。
寝たきりの須永栄一のみであれば直接部屋へ行ってそのまま軽井沢へ移動させればいいだけだったが、今回は付き添いの大村環が一緒だ。
「行きましょう」
本橋が短く言いインターホンを押す。
ほどなくして扉が開いた。
「おはようございます」
裕子は不在で、出迎えたのは大村環だった。
「おはようございます」
本橋が応じる。
「どうぞお入りください。会長は今は眠っておられます」
ベッドからは穏やかな寝息が聞こえている。忠史は玄関で脱いだ三人分の靴をリュックに入れた。すぐに移動できる準備だった。
環はリビングに入ってくる三人の様子を確認しながら思う。
(人が少なすぎる)
通常ならこういう搬送にはある程度の人員や機材が必要なはずだ。それなのに、ここにいるのは昨日と同じ三人だけ。
「あの……」
少し控えめに、だがはっきりとした声で口を開く。
「失礼ですが……みなさま三人だけでベッドごと会長を運ばれるのでしょうか?」
その問いは当然だった。
忠史は思わず本橋の方を見る。本橋は一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。
「ええ。このメンバーで運びます」
迷いのない声。
その言葉に、環は何も言わずくるりと踵を返す。そして玄関へ向かい扉を開けて外へ出た。しばらくして戻ってくるが、その表情は先ほどよりもわずかに引き締まっていた。
「……外に車両などは見当たりませんが……どういう方法で運ばれるのかお聞きしてもよろしいですか?」
部屋の空気が静かに張りつめる。
忠史の喉がわずかに乾く。
(……ここだよな)
隠しきれない。
もう見せるしかない。
「ええ……」
本橋は一度、言葉を探すように視線を落とした。
そして顔を上げる。
「説明の前にひとつお願いがあります」
「……はい」
環は警戒しながらも頷く。
「会長の手を握って、そのまま目を閉じていただけますか?」
「え?」
一瞬、理解が追いつかないという表情を見せる。
「会長の……手、ですか?」
「はい」
本橋は静かに頷く。
環はしばらく本橋を見つめていたが、すぐに決断した。
「……分かりました」
ベッドのそばに歩み寄り、眠っている栄一の手をそっと取る。
その手は大きく重い。環はそれを両手で包み込むように握った。
「このまま……目を閉じればいいんですね」
「はい。ありがとうございます」
環はゆっくりと目を閉じる。部屋の空気がさらに静かになる。
「これでいいですか?」
「ええ。けっこうです」
本橋が応じる。
「しばらくそのままで」
忠史は思わず息を詰めていた。
(本当に……やるんだな)
隣で渉が一歩前に出る気配がする。
本橋が二人に目配せをした。
「……じゃ、渉くん」
短い合図。
――捲る。
リビングが靄に包まれる。
そして元に戻る。
何事もなかったかのように。
「はい。もう目を開けてもらって大丈夫です」
本橋の声が静かに響く。
環がゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた須永邸のリビングではなかった。
広々とした空間。
高い天井。
大きな窓の向こうに広がる森。
自分の手の中には変わらず栄一の手があるが、その場所だけが完全に別のものへと変わっていた。
「……え」
小さな声が漏れる。
視線がゆっくりと周囲をさまよう。
「ここ……は……?」
その問いに本橋が穏やかに答えた。
「軽井沢の別荘です」
静かな声だった。
だが、その一言が意味するものはあまりにも大きかった。




