(2-21)バイト
渉が捲った先は見慣れない建物の中。木の匂いとは違う消毒液のような清潔な空気。そこは神河町にある本橋保の診療所だった。
「こんにちは。本橋先生」
静かな声が室内に落ちる。
その声に引き戻されるように忠史ははっと目を開いた。
診療所の奥。簡素な机と棚、その間に置かれた椅子に一人の男が腰かけていた。白衣を着た年配の医者。穏やかな目をしているが、目の奥にはどこか鋭さも感じる。
「あ、渉くん。こんにちは」
本橋はゆっくりと顔をほころばせた。
「来てくれてよかった」
そう言ってから忠史の方へ視線を向ける。
「そちらの方は?」
「以前先生と話していた手伝ってくれる方です」
渉が簡潔に答える。その一言で場の空気が少しだけ引き締まる。
「あ、遠藤忠史といいます」
忠史は慌てて一歩前に出て頭を下げた。
「大学生です。渉さんにお願いして夏休みにバイトしたいって……」
言いながら、自分でも少し場違いな自己紹介のように感じる。だが、本橋はそんな様子を気にすることもなくゆっくりと頷いた。
「ああ、君か」
興味深そうに目を細める。
「自力で山の中に入って村にたどり着いたって人だね?」
「え……あ、はい」
「うんうん、渉くんから聞いてるよ。あの山の中を……すごいね」
「あ、いやぁ……」
どう返せばいいのか分からず、忠史は曖昧に笑うしかなかった。褒められているのか試されているのか、その境目がよく分からない。
本橋はそんな反応も含めてひとつ頷く。
「私は本橋保」
静かに名乗る。
「ここは私の診療所なんだけど……」
少しだけ間を置いた。
「手伝ってほしいのは診療所の仕事じゃないんだ」
その言葉に忠史は思わず顔を上げる。
(……やっぱり普通のバイトじゃないよな)
まあ、ここまで来て“普通”を期待するほうがどうかしている。
本橋は椅子に腰かけたままゆっくりと言葉を続けた。
渉の父、昭一とのこと。
昔からの親友だったこと。
そして今、自分が渉とともに担っている役割。
「最期師という肩書で仕事をしている」
その言葉は静かだったが妙に重く響いた。
「最期……師?」
聞き返す自分の声が少しだけ遠く感じる。
「依頼者の“最期の願い”を叶える仕事だよ」
簡潔に、しかしはっきりと。診療所の空気がわずかに変わる。
医療の場のようでいて、どこかそれとは違う領域に踏み込んだようなそんな感覚。
「細かいことは……やりながら覚えてもらうことになるかな」
本橋は穏やかに言う。
「ただひとつ、大事なことがある」
視線がまっすぐ忠史を捉える。
「依頼者の最後の最後の願いを扱う仕事だ。だから、くれぐれも勝手な判断はしないでほしい」
その言葉には柔らかさの奥に確かな重みがあった。
「気になること、分からないことはどんな小さなことでもいい。必ず言ってほしい」
静かに締めくくられる。
忠史は小さく息を吸いゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
簡単に言える言葉ではない。だが、ここで曖昧にするわけにもいかない。胸の奥にずしりとした感覚が落ちてくる。
(大変な仕事だな……)
正直な感想だった。人の“最期”に関わる仕事。しかも、その願いを叶える。軽い気持ちで来たわけではない。それでも、想像していたバイトとは明らかに違う。
責任がある。
しかもかなり大きい。
(でも……)
不思議と引き返したいとは思わなかった。
むしろその逆だった。
(やりがいは……ありそうだな)
胸の奥で何かが静かに動く。怖さと興味とほんの少しの覚悟。
そのすべてを抱えながら忠史は改めて前を見た。
ようやく(2-5)の場面に戻ってきました。
ふぅ。




