(2-13)山の中
樹は「こっちこっち!」と軽やかに声を上げるやいなや、ためらいもなく山の奥へと駆け出した。枝を払い、斜面を蹴り上げるその足取りは、まるで地面の凹凸など存在しないかのように滑らかで、気づけばもう姿が見えない。
かろうじて声だけが木々の向こうから跳ね返るように届いてくる。
「はやくー!」
その声を頼りに進みながら忠史は思わず眉をひそめた。
(いくら慣れているとはいえ……動きが早すぎないか?)
足元は決して歩きやすくはない。湿った土に絡む根。滑りやすい石。少しでも気を抜けば転びそうになる道だ。それなのに樹はまるで別の場所を走っているかのように軽やかだった。
ふと、最初に出会った時のことがよみがえる。山の中で迷い、疲れ果てていたあの時に突然現れた小さな影。あの時も確かに素早かった。だがあの時は自分自身が相当参っていた。現実感が薄れていて半分夢でも見ているような気分だったから深く考えなかったというのもある。
だが今は違う。はっきりとした意識の中で見るその動きはどこか現実離れしていた。
「……待ってくれよ」
息を整えながら声を上げ、なんとか樹の気配を追う。
やがてふっと視界が開けた。
木々の間にぽっかりとできた小さな空間。そこに一本の太い枝が張り出し、そこからロープが垂れている。簡素な板が結びつけられたそれは、どこか手作りの温かみを感じさせた。
そのブランコに樹が乗っていた。大きく前後に揺れながら、まるでここが自分の場所だと言わんばかりに。
「……ああ、これか」
忠史は息を整えながら近づく。
翼が言っていた渉の作ったブランコ。
確かにここなら山の中でもひとつの目印になる。
「それにしても樹くん早いねー。なかなか追い付けないよ」
半ば感心し半ば呆れたように言うと、樹はブランコを揺らしたまま振り返った。
「いつもこの辺に居るんだ」
その言葉はあまりにも自然で、ここに居ることが当たり前であるかのような響きだった。
「もうちょっと上の方に行くと沢があるよ」
そう言いながらひょいとブランコから飛び降りる。
着地の音はほとんどしない。
そのまままた駆け出そうとする。
「いや、ちょっと待って」
思わず声をかける。
「いったんここで休憩」
樹は何か言いたげだったがそのまま立ち止まった。
忠史は大きな木を背にしてその場に腰を下ろす。背中に感じる木の幹の感触がじんわりと体の熱を吸っていく。ゆっくりと息を吐きながら周囲を見渡した。
見上げれば、葉の隙間から空がのぞく。風が吹くたびに光が揺れ影が動く。聞こえるのは葉擦れの音と遠くの鳥の声だけ。
――まさに、山の中だった。
街の気配はどこにもない。時間の流れすらここだけ少し違うように感じる。
(……奥袴狭、か)
胸の奥でその名前を反芻する。
ようやく実感が湧いてきた。自分は今確かにこの場所にいるのだと。
緑に囲まれたその静けさの中で、忠史はしばらく動かなかった。




