(2-12)再び奥袴狭
奥袴狭の空気にまだ体がなじみきらないうちだった。
「おかえりー!」
弾むような声とともにひとつの影がこちらへ駆けてくる。
「樹くん」
思わず名前が口をついた。勢いそのままに忠史の足に抱きつき、満面の笑みで忠史を見上げる。
「待ってたよ!」
その一言に胸の奥がじんわりと温かくなる。視線を上げると玄関先には中村さんとその隣に奥さん。奥園家からは園じいと園ばあも顔を出している。
まるで、帰りを待っていてくれたかのようだった。
「あ……」
一瞬、言葉に詰まる。それから慌てて頭を下げた。
「みなさん、おはようございます!」
声が少し弾む。
「またお世話になります!」
中村が穏やかに頷き、隣で奥さんがやわらかく微笑む。
園じいが一歩前に出た。
「部屋はもう掃除してあるから。いつでも入れるぞ」
「あ……」
そこではっとする。
そうだった、そのことをまだ伝えていなかった。
忠史は少しだけ申し訳なさそうに言葉を続ける。
「すみません、あの……今回は長く滞在する予定でして……仁さんから、奥田さんのお宅が空き家だと聞きまして」
言いながら、ちらりと渉のほうを見る。
「もしよろしければ、そちらを使わせていただけないかと思っているんですが……」
渉は静かに頷いた。
「構いません」
それだけで話は通じたようだった。
「では、こちらです」
短くそう言って歩き出す。
忠史も慌てて後を追うが、その横に樹もぴたりとついてきていた。
「こっちこっち!」
自分の家でもないのに得意げに先導する。
少し歩いた先にある一軒の家。木の扉。古いが手入れの行き届いた佇まい。
「ここだよ」
樹が振り返る。渉が扉を開けるとひんやりとした空気が流れ出てきた。
中に入り、思わずあたりを見渡した。
「……きれいだ」
思わず声に出る。長く人が住んでいないはずなのに埃っぽさはほとんど感じられない。床も台所もきちんと整えられている。生活に必要なものはほとんどそのまま残っていた。
「すべて自由に使っていただいて構いません」
渉が静かに言う。
「あ……ありがとうございます」
自然と頭が下がる。
そのとき。
「おーい」
外から声がした。振り返ると玄関の向こうに園じいの姿が見える。
「食事でも何でも、必要なもんがあったら遠慮なく言えよ」
その後ろで園ばあも頷いている。
「あ、はい!」
忠史は思わず大きな声で返事をした。
「ありがとうございます!」
樹がくすくすと笑う。そしてくいっと袖を引いた。
「ね、いつまでいるの?」
期待に満ちた目で見上げてくる。
忠史は少し考えてから答えた。
「うん、今回は……一か月くらい、かな」
その瞬間。
「やったー!」
樹が飛び跳ねる。
「じゃあさ、山ん中いこ! いいとこあるんだよ!」
そのまま忠史の手をぐいっと引っ張る。
「あ、いや、ちょっと待って」
苦笑しながらやんわりと止める。
「あとでな」
樹は少しだけ不満そうな顔をしたがすぐにまた笑った。その様子に少し安心しながら、忠史は渉のほうを向く。
「あの……バイトの件なんですけど」
渉は穏やかな表情のまま軽く頷いた。
そして、静かに言う。
「はい、大丈夫です。その時になったら一緒に行きましょう」
何のバイトかはわからないものの、その一言に不思議と安心する。
「……はい」
忠史は小さく頷いた。
まだ何もわからない。けれど何かが始まる、そんな感覚だけははっきりとあった。
その横で樹が待ちきれない様子でまた袖を引っ張る。
「ねえ、もういい?」
忠史は思わず笑った。
「……ちょっとだけな」
そう答えると樹は嬉しそうに駆け出した。




