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(2-9)すごすぎる

「それでは、また八月一日に」


 そう言って渉は静かに一歩下がった。その仕草を見て忠史は反射的にぎゅっと目をつぶった。


 ――来る。


 奥田のおじさんが視力を失ったという、仁の話しが頭をよぎる。

 すると、穏やかな声がかかった。


「目をつぶらなくて大丈夫ですよ」


 忠史はおそるおそる目を開ける。


「え?」


 間の抜けた声が出る。


「でも……捲るのを見たら、なんかこう……目がつぶれるというか……」


 うまく言葉にできないまま身振りでごまかす。

 渉は小さく頷いた。


「ええ。それは一緒に移動するときです」


「一緒に……?」


「はい。移動する場合は見えている景色そのものが違うので」


 静かに説明を続ける。


「行かないのであれば見ていても問題はありません」


 少し間を置いてから付け加える。


「ですから、そういう意味では……いまは私に触れてはいけません」


「あ……なるほど」


 忠史はゆっくりと頷いた。

 頭の中で整理する。


(つまり……)


 一緒に移動するときは違う視界を見ている目が置いていかれる。

 でも――


傍目(はため)に見てるだけなら大丈夫ってことか)


 すとんと腑に落ちた。


「じゃあ……」


 少し身を乗り出す。


「渉さんが捲るところ、見ていてもいいですか?」


 まるで子どものような好奇心だった。

 渉はわずかに微笑む。


「どうぞ」


 その一言だけ。余計な説明はなかった。

 渉は右手をゆっくりと持ち上げる。そして、すっと斜めに振り下ろした。


 部屋の空気が揺れ、視界がわずかに歪む。まるで水の中から外を見ているような感覚。

 そして、次の瞬間には周囲にふわりと(もや)がかかっていた。


 白く淡い、輪郭を曖昧にする靄。

 その中に渉の姿が溶けていく。


 静まり返った部屋。

 元通りの何の変哲もないワンルーム。

 残された忠史はその場に立ち尽くしていた。


「……」


 言葉が出ない。

 数秒後、ようやくぽつりとつぶやく。


「……すごい」


 それしか出てこなかった。

 本当にいま目の前で起きたことなのか。

 理解はしているはずなのに実感が追いつかない。


「すごすぎる……」


 思わず苦笑する。ついさっき自分の部屋にいた人間が何の前触れもなく消えたのだ。

 けれど、確かにこの目で見た。


 しばらくその場に立ったまま何もできなかった。

 やがて、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。


 天井を見上げる。

 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 恐怖ではない。むしろその逆だった。


「……なんだよこれ」


 小さく笑う。


「めちゃくちゃ面白い」


 抑えきれない感情がこぼれる。

 現実から少し外れた場所。

 知らなかった世界。

 そして、再びそこへ足を踏み入れようとしている自分。


「八月一日……」


 その日を思い浮かべる。ただの夏休みの始まりではない。きっと何かが大きく変わる日だ。

 そんな予感がはっきりとあった。


「……すごい」


「すごすぎる……」


これを書いていて「うまい、うますぎる」でお馴染みの銘菓十万石まんじゅうを思い出してしまった。


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