(2-3)海を見ながら
窓の外には穏やかな海が広がっていた。午後の光が水面に反射して白くきらめいている。遠くでゆっくりと船が進んでいた。
その景色を背に、本橋は椅子に腰掛けていた。
部屋の簡素なベッドには老人が静かに眠っている。呼吸は浅いが規則的だ。
本橋が時計を見る。
(そろそろかな)
そのとき玄関のドアが静かに開いた。
「……失礼します」
奥さんだった。
長い移動の疲れが見えるが、それ以上に緊張した表情をしている。
本橋は立ち上がった。
「お待ちしていました」
奥さんは部屋の奥を見て足を止めた。ベッドの上の夫の姿が目に入ったからだ。
「……」
ゆっくりと近づく。
ベッドの横まで来て震える声で言った。
「……あなた」
老人はまだ眠っていた。
奥さんはそっと手を握る。
「着きましたよ。熱海ですよ」
窓の外から波の音が聞こえる。
しばらくすると老人のまぶたがわずかに動いた。
「……ん……」
ゆっくりと目が開く。焦点の合わない視線が天井をさまよい、やがて窓へ向いた。
青い海。
きらめく光。
老人の目が少しだけ大きくなった。
「……海……」
かすれた声だった。
奥さんはうなずく。
「ええ。熱海ですよ」
老人はしばらく窓を見ていた。
やがて、隣にいる奥さんに気づく。
「……来たのか」
「ええ」
奥さんは少し笑った。
「約束したでしょう」
老人は小さく息を吐いた。
それから、もう一度海を見る。
「……きれいだな」
部屋の中には波の音だけが響いている。
しばらくして老人が言った。
「なあ」
「はい」
「わし……」
少し言葉を探すように沈黙したあと、続けた。
「……いい人生だった」
奥さんの指が少し強く握られる。
老人は続けた。
「お前と一緒になって……」
呼吸が少し乱れる。
それでも言葉を絞り出す。
「……良かった」
奥さんの目から涙がこぼれた。
老人はそれを見てほんの少し笑った。
「泣くなよ」
「……はい」
「わしは……」
ゆっくりと息を吸う。
そして、静かに言った。
「幸せだ」
奥さんは首を振る。
涙を拭きながら言った。
「私もです」
老人は少し驚いた顔をした。
奥さんは続ける。
「本当に幸せでした」
老人は小さくうなずいた。
そして、窓の外を見る。
海は変わらず静かだった。
「……いいな」
老人はつぶやく。
「ここで死ぬの」
奥さんは首を振る。
「まだですよ」
老人は少し笑う。
「そうか」
そして、もう一度だけ奥さんの手を握った。
「……ありがとう」
その手の力がゆっくりと抜けていった。
また眠りに落ちたようだった。
窓の外では波が変わらず寄せては返していた。
奥さんはしばらくその手を握ったまま動かなかった。
やがて、本橋がそっと声をかける。
「奥さん……もう呼吸補助のチューブもありませんし……それほど長くはないと思います」
重い言葉だった。
奥さんは涙を拭きながら言った。
「先生……残りの時間、ここで二人でゆっくり過ごします……」
少し間を置いて続けた。
「連れてきてくれて……ありがとうございました」
本橋は静かに首を振った。
「いえ」
そして、窓の外の海を見ながら言った。
「約束を守ったのは、ご主人ですよ」
奥さんはもう一度夫の顔を見た。
その表情はとても穏やかだった。




