(30)真実の人
その日の夜。
部屋に戻った忠史はベッドに腰を下ろしたまましばらく動くことができなかった。奥園仁の家で聞いた話が頭の中で何度も何度も巡っていたからだ。
奥袴狭の村。
“まひと様”と呼ばれる存在。
目の前の景色を一枚の絵のように捲って移動する力。
そして、その力とともに受け継がれる記憶と経験。
どれも、普通なら到底信じられない話ばかりだった。けれど不思議と忠史の中ではすんなりと受け入れられていた。
あの村を実際に見てしまったからだろう。夜になると静かに光を放つ集落。深い山の中にあるとは思えない、どこか幻想的な空間。あれを見てしまえば「普通ではない何か」があるのだと認めざるを得ない。
ベッドの背にもたれながら忠史はふっと天井を見上げた。
そして、もう一つの出来事を思い出す。
高校生の頃に渋谷で見たあの人影。雑踏の中、ビルとビルの隙間へと歩いていった一人の男。次の瞬間にはまるでビルに吸い込まれたかのように姿が消えていた。あの時は自分の目がおかしくなったのかと思った。
単なる見間違い。そんなものだろうと何度も自分に言い聞かせた。それでもなぜかあの光景が忘れられなかった。
仁にそのことを伝えると、少し考えてからこう言った。
「たぶん、それは渉だろうね」
渉さんは東京にもよく来ているらしい。しかも、渋谷にも何度も行っているという。
つまり――
あの時、自分は偶然にも渉さんを見ていたことになる。
何年も前のことだ。
ただの見間違い。
ただの勘違い。
本来ならとっくに忘れてしまってもいいような出来事だ。それなのになぜかずっと覚えていた。思い出すたびに「何だったんだろう」と思っていた。もしかすると、あれにも何か意味があったのだろうか。
忠史はゆっくりと息を吐いた。
仁が言っていた言葉を思い出す。
“まひと様”を漢字で書くと「真人様」だよ。
真実の人。
ただの不思議な力を持つ存在、というわけではない。
村を支え、村の人々の生活を守り続ける存在。
そして、その役目を十歳の時から背負い続けてきた人物。
「真実の人か……」
口に出してみるとどこか不思議な響きだった。
窓の外を見る。都会の夜景が広がっているが、忠史の頭に浮かんでいたのはあの山奥の静かな村だった。夜になるとやわらかく光る奥袴狭。そしてその澄んだ空気。どこか現実から少し外れたような不思議な空間。
仁の言葉が頭の中でよみがえる。
――夏休みとか、一ヶ月くらい奥村で過ごしてみるのもいいんじゃない?
忠史はもう答えを決めていた。
誰に相談するでもなく、自然と決まっていた。
今年の夏休み、自分は奥袴狭へ行く。
真実の人と呼ばれる男と一緒に過ごす夏。それがどんな時間になるのかはまだわからない。
けれど、きっと――
自分の人生の中で忘れられない夏になる。そんな気がしていた。
忠史はベッドに横になり静かに目を閉じた。
その胸の奥には、もう一つの世界へ続く気配が確かに生まれていた。
ここまでを「捲る人(第一章)」にしようと思います。
次回から第二章。
もしかしたら章立てではなく、結果的に「前編」ってことになるかもしれませんが。
新たな展開をまたゆっくり考えます。
いつも読んでいただきありがとうございます。
最後まで読み続けていただけると幸甚です。




