(16)大学で
翌朝。
目が覚めた瞬間、ほんの少しだけ期待した。あのやわらかな薄明りの感覚。体の奥から澄みわたるような軽さ。
――けれど何もなかった。
いつもの天井。
いつものワンルーム。
少し乾いた空気。
体は重くも軽くもなくただ「普通」だった。奥袴狭で感じた芯から整うような感覚はない。あれはやっぱり特別だったんだな、とぼんやり思う。
枕元のスマホを手に取る。
通知が一件。
中村さんからだ。
遠藤忠史 様
混乱されている気持ち、よくわかります。
私が一つひとつ答えていくより、たぶん仁さんとお話しした方が早いと思います。
仁さんには連絡済で、週末土日なら空けられるから連絡してきて欲しい、ということでした。
電話番号はご存知ですよね?
気持ちの混乱が少しずつでもほぐれていきますように。
中村
返信は嬉しかった。
何よりも「よくわかります」の一文が胸の奥にじんわり沁みた。
そうだよ。オレがおかしいわけじゃない。
この反応は普通だ。平然としていられるほうがおかしい。
オレはちゃんと“普通の人間”なんだ。
(わかってくれてありがとう)
画面を見つめながらそんな気持ちでいっぱいになった。
大学へ向かう。
キャンパスの雑踏。
いつも通りのざわめき。
現実の音。
校門を抜けたところで背後から声が飛んできた。
「ちゅうちゅう! 昨日大丈夫だったか?」
吉岡の声だ。振り向くと吉岡と村井。自分を含めていつもの三人組だ。
ちなみに“ちゅうちゅう”はオレのあだ名。名前「忠史」の字面がなんとなく“中”が二つあるみたいに見えるかららしい。最初は意味がわからなかったが今では普通に反応している。
「何を聞いても、あー、とか、うん、とか、上の空だったもんな」
村井が昨日の様子を話す。
「え、そうだった? そんなにおかしかったか?」
「おかしいなんてもんじゃなかったよ。兵庫で何かあったのか? 結局遺跡はどうだったんだよ?」
吉岡も続ける。
え? 遺跡?
あ!
頭の中が一瞬空白になる。
「あー……いやぁ、結局行けなかったんだよね」
「何? 行けなかったの???」
「兵庫には行ったんだけど……」
「兵庫のおみやげは? おいしいそば買って来てやるとか言ってたじゃん」
忠史と同じく村井もそば好きだった。
「ごめん、忘れた」
「なんだよそれ、そこが一番大事だろー!」
二人が大げさに騒ぐ。そのやり取りが妙に遠く感じる。
奥袴狭。
まひと様。
目をつぶって十数えて新宿御苑。
全部が本当にあったことなのに、このキャンパスに立っていると夢の残り香みたいに曖昧になる。
チャイムが鳴る。
「ほら、講義始まるぞ」
吉岡にうながされ三人で教室へ入る。
教授の声が前から響く。
ノートを開いてペンを持つ。けれど頭のどこかではずっと週末という言葉が反芻されていた。




