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(15)中村へのメール

 その日はすべてがどこか遠かった。講義室のざわめきも教授の声も黒板に走るチョークの音も、薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。

 経済学部のいつもの講義。ノートは開いているしペンも握っている。だが何を書いたのかまったく覚えていない。

 友人に肩を叩かれた気がした。


「おい、大丈夫か?」


 そんな声がした気もする。笑って返事をしたような気もする。でも、何を話したのか思い出せなかった。


 バイト先でも同じだった。レジの前に立ち、手は動いているのに頭の中ではずっとあの瞬間が繰り返されている。


 ――いち、に、さん……

 ――しち、はち、きゅう、じゅう。


 そして目を開けたら新宿御苑。

 どういう理屈であの山奥から東京に帰ってこれたのか?


 それも一瞬で。

 十数える間に。


 あり得ない。


 物理的に不可能だ。空間は連続しているはずだ。距離は距離として存在しているはずだ。

 でも――現に帰ってきた。


 たぶん奥袴狭の人たちはみんな知っているのだ。

 だから「すぐ帰れますから」と言った。

 だから「今日、息子に会ってきました」と言えた。


 いったいどういうことなんだ。


 バイトを終え、帰宅したころには夜十時を過ぎていた。

 いつものワンルーム。

 見慣れた机。

 ベッド。

 散らかった教科書。


 すべてが現実のはずなのにどこか薄っぺらく感じる。


 スマホを握る。中村さんに電話したい。だがこの時間にかけるのはさすがに非常識だろう。

 深呼吸をしてメールを打ち始めた。



 中村さん


 無事に東京に帰れました。

 帰れましたがまったく理解が追い付いていません。


 渉さんから目をつぶって十数えてって言われて、

 十数え終わったら東京に居たんです。

 もう表現の言葉が見つかりません。


 一体僕は何を体験したんでしょう?

 もう疑問だらけです。


 渉さんは何者なんですか?

 いえ、けっして怪しんでいるわけではありません。

 自分の常識が壊れてしまってただただ混乱しています。


 中村さんはそもそも集落の人ではないので、

 僕の気持ちがわかってくれるかもと思い、

 とにかく混乱具合をメールしてみました。


 すみません。


 遠藤忠史



 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が少し軽くなった。


 答えは何も出ていない。

 状況も何ひとつ整理できていない。


 それでも、誰かに伝えたことで自分の体験が「妄想ではない」と確認できた気がした。

 スマホを枕元に置き目を閉じる。


 混乱は消えないまま、

 思考はまとまらないまま、

 それでも身体は疲れていた。


 気づけば眠りに落ちていた。


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