(5-26)大きな岩
樹の小さな背中は驚くほど速く、あっという間に木々の間へ吸い込まれていく。
「樹、ちょっと待って!」
忠史は反射的に声を上げた。
返事はない。
だが、少し先の斜面の上に小さな人影が立ち止まるのが見えた。
どうやら待ってくれているらしい。
忠史はほっと息をつき振り返った。
「お母さん、美樹」
浩子と美樹も数歩だけ山へ入ってきていた。
「二人は車で待ってて。ちょっと樹と見てくるから」
「えっ、大丈夫?」
美樹が不安そうにあたりを見回す。
山には道らしい道がない。落ち葉の積もった斜面のあちこちに、ここ数日で降った雪がまだ白く残っている。木の根も露出し、足を取られそうな場所ばかりだった。
浩子も本当は一緒について行きたかった。だが、普段山を歩き慣れているわけでもない。ここで無理をして足手まといになる方が危険だと、すぐに判断した。
「……うん、わかった」
浩子は静かにうなずく。
「絶対無理しないでね」
「うん。大丈夫」
忠史はそれだけ答えると再び樹の後を追った。
斜面を登り、木々の間を縫うように進むのだが、それにしてもやはり樹は速かった。小学校二年生の子どもの速さではない。枝を避け、岩を飛び越え、雪の残る場所もためらうことなく駆け抜けていく。まるで、この山の地形をすべて知っているかのようだった。
(速い……)
忠史は息を切らせながら必死で追う。それでも、不思議なことに樹は完全には見えなくならなかった。
少し距離が開く。
樹の姿が木陰に隠れる。
すると、また少し先で立ち止まり忠史の方を振り返る。
忠史が近づいてきたなと思うと、樹はまた先へ進む。
その繰り返しだった。
まるで「こっちだよ。ここまで来れるよね?」と確かめながら案内してくれているようだった。
どれほど歩いただろう。
十分か、二十分か。
時間の感覚も曖昧になってきていた。
周囲はすっかり山深くなり、人の気配など完全に消えている。聞こえるのは風が枝を揺らす音と自分の足音だけ。
忠史はふと立ち止まり振り返った。
車を停めた林道はもう見えない。どちらから来たのかさえ、もうわからなくなるほどだった。
(ずいぶん奥まで来たな……)
そんなことを思った時だった。
少し先に大きな岩が見えた。
人の背丈ほどではないが、樹と比べるとほとんど同じくらいの高さだろうか。丸く苔むしたようなその巨石は、まるで昔からそこに鎮座している小さな祠のような存在感を放っていた。
樹はその岩のすぐそばに立ち、黒い玉を両手で抱えたままじっと岩を見つめていた。
忠史もゆっくり近づいた。
「……ここ?」
息を整えながら尋ねる。
樹は振り向かず、小さくうなずいた。
「うん」
そして静かな声で言った。
「ここが、おうちだよ」
山の空気が一瞬だけぴんと張りつめたような気がした。




