(5-5)拠点?
ヒサ子は忠史の肩に手を置いたまま、穏やかな口調で言った。
「で、今日は他に何か言っておくことはあるかい?」
忠史は少し考え込む。
伝えたいことはたくさんあった。
初めて捲った時の感覚。
無数に聞こえてきた声。
黒い玉が奥袴狭の夜のように淡い緑色に光ったこと。
父のこと、そして母や美樹のこと。
どれも頭の中を巡っている。
だが、それらはまだ自分の中でも形になっていなかった。
何から話せばいいのかさえわからない。
しばらく黙っていた忠史は、ふと思い出したように口を開いた。
「あ、じゃあ一つだけ……」
「うん」
「僕の母が、なぜか『山を買いたい』とか言い出して……今日も一か所見てきたんです」
「ほぉ、そうなのかい」
ヒサ子は驚くこともなく相槌を打つ。
隣で渉は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「でも、その場所はピンとこなかったみたいで……」
忠史は苦笑する。
「また明日……というか、もう今日ですね。今日も別の場所を見に行く予定なんです」
「ふん、ふん」
ヒサ子はゆっくりとうなずきながら少しだけ目を細めた。まるで何かを思い出しているようでもあり、何かを見通しているようでもある。
しばらく考え込んだあと、ぽつりと言った。
「遠藤くんにも……拠点が必要ってことなのかもしれないねぇ」
「えっ……?」
忠史は思わず聞き返した。
「拠点……ですか?」
まったく予想していなかった言葉だった。
山を買うことと自分がどう結び付くのかまるで想像がつかない。
ヒサ子は少し笑う。
「人には、その人が立つ場所ってのがあるのかもしれないねぇ」
そして渉が静かにそこに加わる。
「山だったら樹がいた方がいいかもしれませんね」
「えっ? 樹?」
忠史は目を丸くした。
急に樹の名前が出てくるとは思ってもいなかった。
しかし、少し考えてみる。
樹は植物と、というか根っこと話ができる。土の中で広がる無数の根から、その土地の様子を知ることができる。そう考えると、山を見に行くなら自分たちよりもずっと適任なのかもしれない。
「そうか……そうですね……樹か……」
忠史はゆっくりとうなずいた。
自分の知らないところで、少しずつ物事が一本の線に繋がり始めているような気がした。
渉もうなずく。
「朝になったら中村さんにも樹にも話をしておきます。もし必要だったら呼びかけてください」
「ありがとうございます」
忠史も自然と頭を下げた。
「わかりました。僕も家族に話してみます」
とは言ったものの、すぐに困った。
(樹のことを何て説明しよう)
山を見るならこの子が一番!
そう言っても理由までは説明できない。
まして「根と話ができるから」とは、とても言えそうになかった。
それでも不思議と気持ちは軽かった。
新年早々、樹と一緒に山を歩く。
そんな時間を想像すると、少し楽しみにさえ思えてくる。
その様子を見ていたヒサ子が満足そうに笑った。
「よし。じゃあ明日も早いんだろ?」
忠史はうなずく。
「はい」
「今日はもう帰ってゆっくりお休み」
「はい。ありがとうございます」
忠史は一人ひとりの顔を見渡し軽く頭を下げた。
そして奥袴狭の静かな夜へと身を委ねるように、その場を捲って実家へと帰っていった。




