(4-35)キッチン
忠史は何度か深呼吸をした。乱れていた鼓動が少しずつ落ち着いていく。
そして、部屋を満たす淡い緑の光は、まるでぬるま湯に浸かっているような安心感があり、忠史の身体も心もやわらかく包み込んでくれている。
不思議と恐怖はなかった。
もちろん緊張はあるが、それ以上に――確かめたい。
忠史は静かに息を吐いた。
「よし、やろう!」
自分自身を奮い立たせるように、小さく声を出す。
とはいえ、いきなり遠い場所へ行ってしまうのは危険すぎる。
まずは、ごく近く。
絶対に知っていて、すぐに戻ってこられる場所。
忠史はキッチンを思い浮かべた。和室のすぐ隣。
冷蔵庫。
流し台。
母が使っているマグカップ。
頭の中で細部までイメージする。
(キッチン、キッチン、キッチン……)
忠史は目を見開いて右手を挙げた。
そして、地面からエネルギーを吸い上げる。畳の下、もっと深いところから流れ込んでくる力。それを身体の中心に通し、腕へ、指先へ集中させる。
すると、すぐに“ふわふわ”が触れた。さっきよりもはっきりと。
忠史は慎重にそれを手繰った。
薄い毛布の端を摘まむように。
そして、しっかりと掴む。
(キッチン、キッチン、キッチン――)
頭の中は、そのイメージだけで満たされていた。
忠史は“ふわふわ”を掴んだ右手を一気に振り下ろした。
――捲る。
その瞬間、視界がわずかに歪んだ。
空気が流れる感覚。
身体がふっと軽くなる。
そして。
忠史はキッチンに立っていた。
「……っ!」
息が止まる。
目の前には見慣れた流し台。
冷蔵庫。
食器棚。
さっきまで和室に居たはずなのに本当に移動していた。
「できた……!」
忠史は思わず声を漏らした。
夢じゃない。
幻覚でもない。
本当に捲った。
本当に移動した。
全身が震える。
嬉しさ。
驚き。
興奮。
恐怖。
いろんな感情が一気に押し寄せてくる。
忠史は急いで襖を開けて和室へ戻った。すると、部屋はまだ淡い緑の光に満たされていた。
黒い玉は静かに輝き続けており、忠史はその光の中へ戻って畳の上に座り込んだ。
その時だった。
ざわ……ざわ……
どこからともなく多くの声が聞こえ始めた。
「……え?」
忠史は顔を上げる。
最初は、近所の人たちの声かと思った。大晦日から元旦へ変わったばかりだ。初詣へ向かう人もいるだろう。
だが、違う。
そういう現実の音とは何かが違っていた。
距離感が曖昧だった。
遠くから聞こえるようですぐ耳元でも響いている無数の声が、ざわざわと幾重にも重なりながら押し寄せてくる。
祈る声。
願う声。
泣く声。
助けを求める声。
感謝する声。
忠史は、その場から動けなかった。
そしてふと思い出す。
――私が初めて捲れたとき、いろんな声が一斉に聞こえ始めたんです。
渉の言葉。
「あ……」
忠史は呟いた。
「渉さんが言ってたのって……これか……」
声たちは忠史に話しかけているわけではなかった。
ただ、流れ込んでくる。
日本のどこかにある想いが、一斉に耳へ入り込んでくるような感覚。
だがその中でひとつだけ。
いや、いくつかの声だけがはっきりと忠史へ向けられているように感じられた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
低く掠れた声。
「よろしくお願いします、よろしくお願いします、よろしくお願いします……」
切実な声。
そして。
「託してよかった、託してよかった、託してよかった……」
忠史は、淡い緑の光に包まれながらしばらく静かにその声たちへ耳を傾けていた。
新しい年が始まったばかりの深夜。
遠藤忠史の運命もまた静かに、だが確かに動き出した。
ここまでを「捲る人(第四章)」にしようと思います。
この章で締めるつもりだったのですが締められず。(汗)
いつも読んでいただきありがとうございます。
これからも読み続けていただけると幸甚です。




